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平治物語

待賢門軍附信頼落事
重盛〈○平〉弥勇みて、大庭の椋木許迄責付たり、義朝是お見て惡源太はなきか、信頼と雲大億病人が待賢門お早被破つるぞや、あの敵追出せと宣ければ、承候とて被懸けり、続兵には鎌田兵衛、後藤兵衛、佐々木源三、波多野次郎、三浦荒次郎、須藤刑部、長井斎藤別当、岡辺六弥太、猪俣小平六、熊谷次郎、平山武者所、金子十郎、足立右馬允、上総介八郎、関次郎、片桐小八郎大夫、已上十七騎、轡お双べて馳向、大音声お揚て、此手の大将は誰人ぞ名乗れ、聞かん、角申は清和天皇九代後胤、左馬頭義朝嫡子、鎌倉悪源太義平と申者也、生年十五歳、武蔵大蔵の軍の大将として、伯父帯刀先生義賢お討しより以来、度々の合戦に一度も不覚の名おとらず、年積て十九歳見参せんとて、五百騎の真中へ割て入、西より東へ追まくり、北より南へ追廻し、竪様横様十文字に、敵お颯と蹴散して、半武者共に目なかけそ、大将軍お組てうて、櫨匂の鎧に蝶の下金物打て、黄鴾毛の馬に乗たるこそ重盛よ、押双べて組て落、手捕にせよと下知すれば、大将おくませじと、防ぐ平家の侍共、与三左衛門、新藤左衛門お始として、百騎計が中にぞ隔りける、惡源太お始として、十七騎の兵共、大将軍に目お懸て、大庭の椋木お中に立て、左近の桜、右近の橘お七八度迄追廻して、組まんくまんとぞ揉だりける、十七騎に被懸立て、五百余騎協はじとや思ひけん、大宮面へ颯と引、大将左衛門佐は、弓杖ついて馬の息おじかせ給処に、筑後守つと参て、曩祖平将軍の二度生替り給へる君哉と、向様に誉奉れば、今一度懸て家貞に見せんとや思はれけん、前の五百余騎おば留置、荒手五百余騎お相具して、又大庭の椋木まで責寄たり、又惡源太かけ向見まはして雲けるは、隻今向たるは皆荒手の兵也、但大将は元の大将重盛ぞ、以前こそ洩すとも、今度に於てはあますまじ、押双て組て捕れ兵共と下知すれば、勇に勇みたる十七騎、我先にと進ければ、今度は難波次郎、同三郎、瀬尾太郎、伊藤武者お始として、百余騎が中に隔たるに事ともせず、惡源太弓おば小脇に貝挟、鐙蹈張つたち揚り、左右の手お挙、幸に義平源氏の嫡々也、御辺も平家の嫡々也、敵には誰か嫌はん、よれやくまんと雲儘に、先の如く大庭の椋木の下お追まはして、五六度までこそ揉だりけれ、重盛組ぬべうもなくや思はれけん、又大宮面へ引て出、惡源太二度まで敵お追まくり、弓杖ついて馬に息おつかせけるに、義朝是お見て、須藤滝口お以て女が不覚に防けばこそ、敵度々懸入らめ、あれ速に追出せと被雲使ければ、俊綱馳て此由お雲に、承り候進めや者共とて、色も替らぬ十七騎、大宮表に懸出て、敵五百余騎が中へ、面も不振割て入、引立たる勢なれば、馬の足お立兼て、大宮お下りに二条お東へ引ければ、我子ながらも義平は、能懸たる物哉、あかけたりとぞ被誉ける、大将重盛、与三左衛門景安、新藤左衛門家泰、主従三騎かけ放れ、二条お東へひかれければ、惡源太鎌田に屹と目合せて、援に落るは大将とこそ見れ、返せやとて追懸たり、既堀河にて追詰けるが、弓手の方に材木多充満たるに、悪源太の乗給へる馬、かたなつけの駒にて、材木にや驚きけそ、妻手の方へ蹴しとんて、小膝お折てどうと伏、鎌田兵衛不延と、十三束取て番ひ、能引て兵と射る、重盛の射向の袖にはたと中て飛返る、軈て二の矢お射たりければ、押付に丁と中て箆かつき砕けて跳返れり、惡源太是は聞ゆる唐皮と雲鎧、ござんなれ、馬お射て落ちん所おうてと被下知ければ、又能引て追様に、はずのかくるヽ程射込たり、馬は屏風お返す如く倒れば、材木の上にはね被落、甲もおちて大童に成給、鎌田堀河お馳越て、重盛に組んと落逢、重盛近付ては協はじとや思はれけん、弓のはずにて鎌田が甲の鉢お丁と突、被突てゆらゆる間に、甲お取て打著つヽ、緒お強くこそ被縮けれ、与三左衛門馳寄て中に隔申けるは、漢紀信は高祖の命に代て、栄陽の囲お出し、終に天下お保たせき、主はづかしめらるヽ時、臣死すと雲にあらずや、景安援にあり、よれや組んと雲儘に、鎌田兵衛と引組で押へける処に、惡源太馬引起し、是も堀河お、馳越て、重盛に組まんと飛て懸りけるが、鎌田おや助る、大将おやうたんと思案しけれ共、大将には又も寄逢べし、政家おうたせては協はじと思、与三左衛門に落合て、三刀さして頸お取る、重盛は憑切たる景安討せて、命生て何かせんとて、既悪源太と組まんとせられけるお、新藤左衛門馳来り、家泰が候はざらん所にてこそ、大将の御命おば捨給べけれとて、我馬お引向中に隔て、惡源太とむずと組、政家は重盛にくまんとしけるが、主お討せては協はじと思ければ、新藤左衛門に落重て頸お掻、此間に重盛は虎口お遁れて、六波羅迄ぞ被落ける、二人の侍なからましかば、助かり難き命也、