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源平盛衰記
二十
石橋合戦事
兵衛佐殿〈○源頼朝〉仰に、武蔵、相模の聞ゆる者共は、皆在と覚ゆ、中にも大場俣野兄弟先陣と見えたり、此等に誰おか与すべきと宣へば、岡崎四郎義真申けるは、弓箭お取て、戦場に出る程の者、敵一人にくまぬ者やは侍るべき、親の身にて申事、人の嘲お顧ざるに似たれ共、存る処お申さざらんも、還て又私あるに似たるべし、義貞は此間大事の所労仕て、未力つかずや侍らめ共、心しぶとき奴にて、弓箭取ては等倫に劣るべからず、其器に侍り、被仰含べきかと申ければ、兵衛佐宣けるは、趙武挙以私讐、祈奚薦以己子せり、忠有て私無には、或は敵お挙し、或は子お薦事、皆合義合法、義貞お召てけり、与一其日の装束には、青地錦の直垂に、赤威肩白冑のすそ金物打たるお著て、妻黒の箭負、長覆輪の剣お帯けり、折烏帽子お引立て、弓お平め跪きて、将軍の前に平伏せり、白葦毛なる馬おぞ引せたる、其体あたりお払てぞ見えける、今日の撰にあへる、誠にゆヽしく見えし、兵衛佐、佐奈田に宣ひけるは、大場俣野は名ある奴原也、今日の軍の先陣仕て、彼等二人が間にくめ、源氏の軍の手合也、高名せよとぞ宣ひける、〈○中略〉与一既に打出ければ、佐殿は義貞が装束毛早に見ゆ、著替よかしと宣へば、与一は弓矢取身の晴振舞、軍場に過たる事候まじ、猶欣処に侍とて、十五騎の勢お相具して、進出て申けるは、源氏世お取給ふべき、軍の先陣給て、蒐出たるお誰とか思ふ、音にも聞らん、目にも見よ、三浦介義明の弟に、本は三浦惡四郎、今は岡崎四郎義真、其嫡子に佐奈田与一義貞、生年廿五、我と思はん人々は、組や〳〵とて叫でかく、