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太平記

鎌倉兵火事附長崎父子武勇事
中にも長崎三郎左衛門入道思元子息勘解由左衛門為基二人は、極楽寺の切通へ向て、責入敵お支て防けるが、敵の時の声已に小町口に聞へて、鎌倉殿の御屋形に火懸りぬと見へしかば、相随ふ兵七千余騎おば、猶本の責口に残置き、父子二人が手勢六百余騎お勝て、小町口へぞ向ける、〈○中略〉釈る処に天狗堂と扇が谷に軍有と覚て、馬煙忯敷みへければ、長崎父子左右へ別て馳向はんとしけるが、子息勘解由左衛門是お限と思ければ、名残惜げに立止て、遥に父の方お見遣て、両眼より涙お浮べて、行きも過ざりけるお、父屹と是お見て、高らかに恥しめて、馬お扣て雲けるは、何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ、我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべきとて、高声に申ければ、為基涙お推拭ひ、さ候ばヾ疾して冥途の旅お御急候へ、死出の山路にては待進せ候はんと雲捨て、大勢の中へ懸入ける、心の中こそ哀なれ、相従兵僅にに十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取籠て、短兵急に折がんとす、為基が佩たる太刀は面影と名付て、来太郎国行が、百日精進して、百貫にて三尺三寸に打たる太刀なれば、此鋒に廻る者或は甲の鉢お立破に被破、或笥板お袈裟懸に切て被落ける程に、敵皆是れに被追立て、敢て近付者も無りけり、隻陣お隔て矢衾お作て、遠矢に射殺さんとしける間、為基乗たる馬に矢の立つ事七筋也、角ては可然敵に近て、組んとする事協はじと思ければ、由並浜の大鳥居の前にて、馬よりゆらおと飛で下、隻一人太刀お倒に杖て、二王立にぞ立たりける、義貞の兵是お見て、猶も隻十方より遠矢に射計にて、寄合んとする者ぞ無りける、敵お為謀手負たる真似おして、小膝お折てぞ臥たりける、援に誰とは不知、粒子引両の笠符付たる武者、五十余騎ひし〳〵と打寄て、勘解由左衛門が頸お取んと、争ひ近付ける処に、為基かばと起て、太刀お取直し、何者ぞ人の軍に、しくたびれて、昼寝したるお驚すは、いで己等がほしかる頸取せんと雲儘に、鐔本まで血に成たる太刀お打振て、鳴雷の落懸る様に、大手おはたけて追ける間、五十余騎の者共、逸足お出し逃ける間、勘解由左衛門大音揚て、何くまで逃るぞ、蓬し返せと哼る声の、隻耳本に聞へて、日来さしも早しと思し馬共、皆一所に躍る心地して、恐じなんど雲計なし、