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太平記
十四
官軍引退箱根事
義貞、〈○新田、中略、〉舟田入道お打つれて、箱根山お引て下給ふ、其勢僅に百騎には過ざりけり、且く馬お扣へて、後ら見給へば、例の十六騎の党馳参たり、又北なる山に添て、三つ葉柏の旗の見へたるは、敵か御方歟と問給へば、熱田の大宮司、百騎計にて待奉る、其勢お並て、野七里(のくれ)に打出給ひたれば、鷹の羽の旗一流指し揚て、菊池肥後守武重、三百余騎にて馳参る、援に散所法師一人、西の方より来りけるが、舟田が馬の前に畏て、是はいづくへとて御通り候やらん、昨日の暮程に、脇屋殿、竹の下の合戦に討負て、落させ給候し後、将軍の御勢八十万騎、伊豆の府に居余て、木の下岩の陰、人ならずと雲所候はず、今此御勢計にて御通り候はん事、努々協まじき事にて候とぞ申ける、是お聞て、栗生と篠塚と打双べて候けるが、鐙踏張夕、つとのびあがり、御方の勢お打見て、哀れ兵共や、一騎当千の武者とは此人々おぞ申べき、敵八十万騎に、御方五百余騎、吉程(よそほど)の合ひ手也、いで〳〵懸破て、道開て参ぜん、継けや人々と勇めて、数万騎打集たる敵の中へ懸て入、府中〈○伊豆〉にて一条次郎三千余騎にて戦ひけるが、新田左兵衛督〈○義貞〉お見て、よき敵と思ひけるにや、馳双て組んとしけけるお、篠塚中に隔て打ける太刀お弓手の袖に受留、大の武者おかい〓て、弓杖二丈許ぞ投たりける、一条も大かの早業成ければ、抛られたれ共倒れず、漂ふ足お践直して、猶義貞に走懸らんとしけるお、篠塚馬より飛ており、両膝合て倒に蹴倒す、倒るヽと均く、一条お起しも立ず、押へて首かき切ぞ指揚ける、一条が郎等共、目の前に主お討せて、心うき事に思ければ、篠塚 お討んと、馬より飛下々々、打ぶ懸れば、篠塚かい違ては蹴倒し、蹴倒しては首お取、足おもためず一所にて、九人迄こそ討たりけれ、是お見て敵数十万騎有と雲ども、敢懸合せん共せざりければ、義貞閑々と伊豆の府お打て通り給ふ、〈○中略〉諸卒お皆渡しばてヽ後、舟田入道と大将義貞朝臣と、二人橋〈○天竜川浮橋〉お渡り給ひけるに、如何なる野心の者かしたおけん、浮橋お一間、はりづなお切てぞ捨たりける、舎人馬お引て渡りけるが、馬と共に倒に落入て、浮ぬ沈ぬ流けるお、舟田入道誰かある、あの御馬引上ぐよと申ければ、後に渡ける栗生左衛門、鎧著ながら川中へ飛つかり、二町計游付て、馬と舎人とお左右の手に差揚て、肩お超ける水の底お閑に歩て、向の岸へぞ著たりける、此の馬の落入ける時、橋二間計落て、渡るべき様もなかりけるお、舟田入道と、大将と、二人手に手お取組て、ゆらりと飛渡り給ふ、其の跡に候ける兵二十余人飛力子て、且(しば)し徘徊しけるお、伊賀国住人に、名張八郎とて、名誉の大力の有けるが、いで渡して取やんとて、鎧武者の上巻お取て、中に提げ、二十人までこそ投越けれ、今二人残て有けるお、左右の脇に軽々と挟て、一丈余り落たる橋お、ゆらりと飛て、向の橋桁お踏けるに、踏所少も動かず、誠に軽げに見へければ、諸軍勢遥に是お見て、あないかめし、何れも凡夫の態に非ず、大将と雲、手の者共と雲、何れお捨べし共覚子共、時の運に引れて、此軍に打負給ひぬるうたてさよと、雲はぬ人こそなかりけれ、