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応仁記

三宝院責落事
武田大膳大夫が舎弟安芸守基綱、三宝院お固て、内裏の御警固して居たりしお、右衛門佐義就、能登の修理大夫、大内介、土岐、六角、一色、五万余騎、東陣の一の木戸なればとて、三宝院へ押寄、武田基綱大力の勇者にて、手勢二、千人にて、三賓院の門の片扉お開き、切て入勢お防留よと、卯刻より申の終迄、十余度迄追出けり、然共大勢は皆うたれ、基綱一人踏止て防ぎける、援に紀州熊野の侍に、野老源三と雲者有、奥三山に隠なき、大力の剛の者有けるが、援なる敵一人に、あまたの味方うたれ無念也、某し組留てみせんと進よりて、太刀下へつとより、打物加瀝と捨て、手おはだけて飛付けり、基綱是お見て、これは鎧物具の実おためして、二両も著たればこそ、かくは振舞らん、甲お打破てすてんと、、少飛のきて、惡き敵の振舞哉、捨太刀一つ受て見よと雲まヽ、振あげて丁と打つ、三枚重の鉄甲の、磐石の如くなるお打破り、手対して、七尺三寸の御所焼と雲太刀の、はヾき本より打折て、基綱手お失ひ、牛のたけるが如く哼て、飛のきけれども、敢て追かくる者なし、野老源三は打居られて、目口一つに血に成て死にけり、