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常山紀談

東照宮小牧に陣しておはしませしが、秀吉兵お分ち中入すと聞し召、敵の跡に従うて向はせ給ふ、小牧には石川伯耆守数正、酒井左衛門尉忠次、本多平八郎忠勝お残させ給へり、然るに秀吉大軍お出して、長久手に向はれけるお見て、忠次は秀吉の本陣楽田へ押寄、火おかけて攻擊べしと雲けれども、石川、秀吉後に変有と聞て、弥怒られなんと、強て押へて止りけり、忠勝は秀吉の馬じるしお見るより、僅に五百計引具し、小牧おかけ出、小川一筋隔て、秀吉に相ならび、長久手さして馳向ふ、路にて足軽お進め、鉄炮お打かけ、一軍せんとすれとも、秀吉見ざる体にて取合ず、竜泉寺の前にて、忠勝馬お川に打入口お洗ふ秀吉あの鹿の角の立物の冑お著たるは大将よ、誰か見知たると問るゝに、稲葉伊予守道朝、過し年姉川の軍に、武者出立見知て候、本多平八郎にて候と申もあへぬに、秀吉涙おはら〳〵と流し、五百に足らぬ士卒おもて、吾八万の軍にかけ合さんとする、千死に一生もなきぞかし、然るに道お隙どらせ、己が主君の軍に勝利あらせんとの志、勇と雲、忠と雲、誠に類なき本多かな、秀吉運強くば軍にかたん、あたら者お討べからずとて、弓鉄炮お制せられけり、