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陰徳太平記
六十九
肥前国有馬合戦並島津竜造寺合戦附隆信最後之事
三男江上家種大力量の人也、所著の鎧、鉄の厚さ五分に鍛せ、刀は四尺八寸、脇刺二尺六寸也、鎗の柄三間半、鉄お延て付たれば、恰も羊侃が折樹槊共雲つべし、此鎗お以て敵お突貫ては抛、突貫ては被投げるに、或軍場にて鋒折たれば、柄計振て剃廻られ、数十人打倒されけるとかや、常に樫の棒お一尺周り八角に作り、筋金お伏て拵へ、之お以剃倒さるヽに、側に近付者はなし、或時秀吉公力量の程お御覧ぜんとて召れたり、家種六尺許有ける鉄の棒お杖に策て赴き、玄関の前なる庭に押込、頭お手一束程余して置れしお、跡にて小姓衆など寄合抜んとするに、動くべうも無りけり、秀吉公力量お著はされよと宣ければ、御前に在ける棊石お取て柱に幾等も推込れくり、又碁盤の隅お片手に執て百目掛の蠟燭の火お扇ぎて消されけるにぞ、秀吉公お始満座胆お寒しける、さて御辺は国に帰て心随に可被休息、遠路なれば重て上洛に不及とて下されけり、其後秀吉公安国寺に向て、彼が如き大力おば、大将の近辺に不置物也と宣けるとかや、家種於朝鮮彼国一番の相撲の上手と勝負お可試約お作けるに、朝鮮人は藤お以て腹お巻て出けるが、家種大竹お挫て腹お巻、足踏被為しに、大地震動せしお見て、恐懼して角力せずとかや、