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明徳記

上原入道と申老武者あり、引ける御方に半町ばかり先立て、猪熊お上に一条まで逃たりけるが、馬の足音時の声耳に付て、乗たる馬の三づの上に聞えければ、敵が近付たるぞと心得て、相国寺おさして馳行けり、惡党乱入の為に、相国寺には総門お差堅めて、行者仁供大勢にて門お固めたる所へ、内野の時声未だ聞えける最中に、上原入道はせ来て、門おあけられ候へと、おんばく計に呼りければ、若敵でもや有らんとて、人々行堂ばうちきりきお持て、打出しければ、是にも敵の有けるぞやとて鞭に鎧〈○鎧恐鐙誤〉お揉合、八講堂お東へ、万里小路お北へ向て鞍馬の奥お志して、馬の足もおる、計にて逃たりける、みぞろ池の辺りにて、馬更にはたらかざりければ、暫く引えて都の方お顧たれば、我逃つる跡には人一人も見えず、猶内野二は、軍の有と覚えて、時の声幽かに聞ければ、是はそも何事に是まで逃たりけるぞや、我ながらか程億病まで、弓矢の道に携りける不当さよ、白昼のわざなれば、惡事千里お走る、此事世には隠有べからず、然らば何の面てか有てか、憑たる人にも対面すべき、能き善知識なりと、独り言おして、都の内お忍出て、西国の方へ下しは、ためし少き事共也、