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常山紀談
十一
東照宮、柳生又右衛門は、石田が士大将島左近と、同国のよしみにて懇なりと聞召れ、左近方へ行て物語して、彼はいかにいふらん聞て来れと仰有しかば、柳生左近に逢て、世間の物がたりし、いかに成るべき事ならむといひければ、左近聞て、今松永、明智二人の智謀決断ある人なければ、何事か有るべきと、打笑ひけり、此子細は、或時石田密謀に及びけるに、左近豊臣家の為お存せんに、斯あらで止べきや、されども援に存る旨めり、大事お企るには、我志す処お無二無三に決断して、少しも猶予有るべからず、しかるに去年より度々仕課すべき円お、空しくはづし給ふ事多し、既に時お失ひぬ、能々世のありさまお見るに、石田の家お惡む人々、大かた徳川殿に心お寄たり、当家の存亡計るべからず、一日の過るも残多し、隻理お非にまげて、唯今まで疎遠の諸大将達へもへりくだり、遺恨なく計ひて、交り親しみしばらく時お待べきも、一つの計策にてこそといひければ、三成されば縦分一時に能志お遂るとも、後の安かるべき様お計るなりといひけるに、左近いや〳〵事能く一時に勝お得るならば、後に何の危き事か候べき、内府に親しき人々お積るに、其兵二万に過べからず、味方素より心お合する大国の人は、又近国の兵お集るとも忽馳寄て、五六万には及ぶべし、景勝卿再拝お取て下知し、関東お攻破らんに、何程の事か候べきとて、又存る旨おいひ出しけるに、客の来て三成座お立ければ、樫原彦右衛門居残りて、左近に向かひ、いかにも仰さる事也、松永弾正、明智光秀は、無双の惡逆者なれど、事お決断するに、誰か相並ぶべき、此詮議の破り、相手に頼むべきものおといひけるとかや、其によりてかく柳生には答へけるとなり、