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甲子夜話

又此侯〈○松平治政、号一心斎、〉の事お聞たるは、在職中の事なり、中沢道二とて、心学の一流お唱へ、一時都下に鳴れり、当時権門勢家も多く延致す、又仮字の著述多し、曰ふ、人はとかく堪忍第一なり、堪忍お旨とせざれば事成らずと書て、道歌お載す、
堪忍がなる堪忍が堪忍かならぬ堪忍するが堪忍、世お以て賞僅して皆相誦す、一心斎心に悦ばず、一日道にお其邸に招く、期するに巳牌お以てす、道二至て謁お通ず、謁者不出、やヽありて出、道二来れることお告ぐ、謁者入て又不出こと良久し、日已に午に及べども如初、道にやヽ空腹になり、人お呼べども人無し、とかくする中に自鳴鐘の音聞え申時なり、道二しきりに人お呼ぶこ属し、而後用人除々として出づ、道二乃応召して来れることお言ふ、用人入てやがて奥に通らるべしと雲、道二は主人出激にやなど、心中に思ながら入るに、案外に酒宴の席にて、杯盤狼藉たり、道二至ると、坐客の中即一盃お献ぜん迚、数合お容べき大盃お傾て、道二にさす、少婦起て満酳す、道二は下戸なりと言て辞す、客強て不止、道二固く辞す、客怒りて人のさす杯お飲まざるは不敬なりと雲て、盃酒お道にの頂に灌ぐ、道二大に嗔り、道の為に人お招き、かヽる挙動はと雲て坐お起んとす、時に一座の諸人同音に、ならぬ堪忍するが堪忍と、高声に唱へ、足下の心学未熟なりとて、どつと笑たり、道二大に愧て逃還れりと、