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告志篇
我等〈○徳川斉昭〉浅学不才にて、義文辞とても行届かね候得共、存付候事包み居候ては、我等の愚意も不相分、愚意成とて隠すべきにもあらねば、書つゞりて一冊となし、近侍のものへ為見せ候也、敢て老成人に示さむとにはあらず、少年後進の輩、見及び聞及び候て、猶に存相守候はゞ、大幸の事に存るなり、人は貴き賤にはよらず、本お思ひ恩お報ひ候様心がけ候儀、専一と存候、抑日本は神聖の国にして、天祖天孫統お垂、極お建賜ひしよりこのかた、明徳遠き大陽と共に照臨ましまし、宝祚の隆なる天壌とともに窮りなく、君臣父子の常道より、衣食住の日用に至るまで、皆是天祖の恩賚にして、万民永く飢寒の患お免れて、天下敢て非望の念お萌さず、難有とも申も恐多き御事也、然れ共数千年の久しき、内に盛衰なき事能はず、或は治まり、或は乱れ、永禄天正の間に至りて、天下の乱極りしかど東照宮三河に起らせられ、櫛風沐雨、辛苦艱難まし〳〵て、上は、天朝お輔翼し奉り、下は諸侯お鎮撫し給ひ、二百余年の今に至るまで、天下の泰山の安きお保ち、人民塗炭の苦お免れ、生れながら太平の徳沢に浴し居るは、是亦難有御事ならずや、されば人たるもの、かりそめにも神国の貴きゆえんと、天祖の恩賚とお忘るべからず、又かりそめにも、東照宮の徳沢おゆるかせに心得候ては、不相済事と存候、〈○中略〉一日たり共いたづらに日お送らざる様致度候、
今世よく父母お養ひ、衣食等の世話行届しお孝子と唱候、是も孝の一端には候得ども、庶人の孝にて士の孝とは申がたく候、孝経にも天子より庶人に至る迄、其立場により孝にも夫々次第有之様に相見得候、扠亦心に天祖東照宮の御恩お報はんとて、悪く心得違ひ、眼前の君父おも差置、たゞちに天朝公辺へ忠お尽さんと思はゞ、却て僭乱の罪のがるまじく候、忠も其身分により衣第有之事に候得共、前々もいへる如く、兎も角も面々の身分お考へ、真実に心お用ひ候て、自ら過不及も有まじく候、〈○中略〉天祖東照宮の御恩お報はんとならば、先君先祖の恩お報はんと心懸候外有間敷候、先君先祖の恩お報はんとならば、眼前の君父へ忠孝お尽し候外有間敷候、万一右の外に忠孝の道有といはゞ、皆是異端邪説と存候間、忠孝一致と相弁へ、心得違無之様致度事に候、文武の道も亦一致と存候、凡武士たるもの武、道お励まずして不協義は、各も承知の事に候得共、不学文盲にては不相済事と存候、児重も知りたる今川了俊が、不知文道武道終に不得勝利といへる其言浅に似たれども、其旨深しと思ふ、然る処に不学の者、文道は漢国の教也とて嘲り笑ひ、又たま〳〵学び亢るは其道に泥み、尭俊者天祖天孫よりも難有ものと心得違者無にしもあらず、我等浅学にて古今に暗けれ共、幼きより神聖の道お尊び、つら〳〵思ふに、君臣父子の大倫は勿論、祭祀お崇ひ本お報るの道より、勇武尊び、恥お知るの義に至るまで、皆神代の昔より備りたる事にて、忠孝文武などといふ文字こそみなけれ、其道はまさしく神国の大道と存候、其上風俗の美なる事異国にすぐれ、威稜の健迄四夷にふるひ、何も事欠たる事あらざれども、後の聖君賢主、殊更に人に取て善おなし給ひ、経書賢人お異国に求め給ひたるゆへ、漢土の書籍渡り来て、孔子の道も伝り、神国の道ます〳〵明に、法度も追々に備りたる事なれば、神国にて孔子の道お学ぶ人は、孔子の尭俊お尊が如くに、天祖天孫お仰奉にてこそ、孔子の道にも協ふべければ、漢土の道も神国の人学ぶ時は、則神国の道也とてしりそぐべきにあらず、彼蛮夷の仏経おば家々に信向し、我父母先祖おすら仏抔にとなへながら、独文道に至ては、漢国の教也とて学ばざるは、迷へるの甚しきならずや、能々此義お弁へ、文道おゆるかせにせざる様と存候、是吾等の申候事には無之、義公の遺訓にも、士の大節に臨みて、嫌疑お定め、戦陣に望みて、勝敗お明らめ、生死お決し、義理お分つは、学問に非ずしては抑また熟とや、然るに当世無学の士、是非黒白のわかちもなく、士は武芸お事として、死すべき場にあらでも死す、学問は書生の事也、たらずとて、せざるのみにあらず、又したがつて是おそしる、是皆生おおしみ死お恐るゝ者の言葉、士とするにたらざるべし、士たらんものは、死は分内の事也、唯義に処するおもて難しとす、されば己れ死すまじき所にや、山賊強盗のたぐひ死お見るもの帰するがごとし、若命お愛まぬものおのみ士といはゞ、是等の人も士なるべく、彼禽獣すら闘に臨んで命おかへりみず、若能闘ひにて死するお以て士とせば、鶏犬のたぐひも士なるべくや、雲々の給へり、其外公には甚しく文学の御世話有ける事、各も奉承知候事にて、申迄も無之間、文武の一致なる義お弁へ、兎に角に修行専一に心掛、何事お学ぶとも年月お頼まず、学ばんとこゝろざゝば速に学ぶべし、〈○中略〉近来又一種の弊風お生じ、己れは学問おも勤ずして、人の論お雑説し、武芸は励ずして、身形刀剣おいかめしくし、あるひは孝悌忠信の道おば捨おき、権謀術数お旨とし、人物の評論、政事の批判等に日お費し、身お修め家おとゝのへる事に至而は、是お度外に置る類、以の外なる風義なきにしもあらず、君子欲訥於言敏於行とさへ承りしに、如斯行跡は抑いかなる心ぞや、是皆真実の心薄くして、己お省るの心なき故なるべし、仍ては正心誠意の尊きお本として、恭敬の意お取失はず、武芸の義も表お飾るの意お止て沈勇お尚び、篤実律義の士と成候様可心掛候、〈○中略〉国の本は家に有、家の本は身に有と申候得ば、面々真実に身お修めんと心懸候はゞ、国も治らずしては協ざる理と存候、扠其役職々により、勤向は相違有とも、目当と致し候処は、一致に無くては相成間敷、〈○中略〉依て能々此処お考へ、面々の心おきり替、役人の外なりとて、少も其身お疎略に致さず、行跡お嗜み、一家お斉へ、組中の交お睦しく、忠孝文武お以、励し合可申、番頭以上に至りては、諸士の手本、自他の見張にも相成候職に候得ば、別して言行おも慎み、何事によらず存寄之儀は、我等へも申出し、役人共へも遂相談、国家と休戚お共にし候心得有之度存候、面々の心得如此成たらんには、風俗もいかで改らざるべき、武備もいかでか整はざるべき、天下安くとも乱お忘れず、いつ何時、公辺より討手の大将お被仰付候ても、一同少しも差支無之様不心掛候では、士の詮は無之候、士農工商夫々の持前ありて、今太平の世にも、農と工商と夫々の業ありて、夫々の心得も有事成に、独り士に至りて、士の備なかるべけんや、然るに太平なればとて、武道の嗜もせず、飽まで食ひ暖に衣、今日迄安穏に暮したる厚き御恩お忘れ、驕佚にのみ長じ、寒暑風雨に逢ても、忽に邪気お引受る様成柔弱の身と成ては、士は四民の内の遊民也、若是お恥しく思はゞ、士の道お心懸、士の備おなして、不慮の用に供し可申、恐多くも天祖の恩にて神国に生育し、東照宮の徳沢にて、太平に沐浴し、累代安楽に暮し候事、申までも無之候へば、万一事あらん時は、我等不肖ながら天朝公辺の御為には、身命お塵芥よりも軽んじ、大恩お奉報候所存に候間、面々も其心得にて、我等何時出馬致し候ても、差支無之様、常に心懸可申候也、
天保四年癸巳三月廿三日
C 誠子弟