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太平記
十六
正成首送故郷事
今年十一歳に成ける帯刀、〈○楠正行〉父が首の生たおし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなぐなる様お見て、流るゝ涙お袖に押へて、持仏堂の方へ行けるお、母怪しく思て、則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき、形見に留めし菊水の刀お、右の手に抜持て、袴の腰お押さげて、自害おせんとぞし居たりける、母急ぎ走寄て、正行が小腕に取付て、涙お流して申けるは、栴檀は二葉より芳といへり、女おさなく共、父が子ならば、是程の理に迷ふべしや、小心にも能々事の様お、思ふてみよかし、故判官が兵庫へ向ひし時、女お桜井の宿より返し留めし事は、全く跡お訪らはれん為に非ず、腹お切れとに残し置しにも非ず、我縦ひ運命尽て、戦場に命お失ふ共、君何くにも御座有と承らば、死残りたらん一族若党共おも扶持し置き、今一度軍お起し、御敵お滅して、君お御代にも立進らせよと雲置し所なり、其遺言具に聞て、我にも語し者が、何の程に忘れけるぞや、角ては父が名お失ひはて、君の御用に合進らせん事有べし共不覚と、位々勇め留て、抜たる刀お奪とれば、正行腹お不切得、礼盤の上より泣倒れ、母と共にぞ歎ける、