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自教鑑
夫天地に陰陽あれば、人に夫婦あり、ふうふあれば父子あり、父子あれば兄弟あり、兄弟あれば君臣あり、君臣あれば朋友あり、これ自然の道なり、
一凡そ父母は慈と教とお主とし、子は愛と敬とお主とす、
一人の子たる者は、能く父母に事ふる而巳にあらず、又我身お慎みて、父母の憂お遺す事なきお 第一とす、古に曰、父母はたゞその疾おうれふと、然れば別て疾おつゝしむべし、
一父母います時は遠遊せずといへり、是亦父母の憂おおそれて也、況や一朝の怒りに其身おわ すれて、其親に及ぼす事やあるべき、
一子おそだつる道は礼義正しく厳かなるべし、かりそめにも愛に溺れて、ゆるかせになすべか らず、
一子お教るには、幼より善に導き惡に馴しむべからず、然らば友お択べし、水は方円の器に随ひ、 人は善悪の友によるといふ事、格言なりと知るべし、
一寵愛の子たちといふとも、兄おさし置、弟に家お伝べからず、是によりて国家お乱せし事こそ、 其ためし歷然たれ、一人の臣たる者は、隻その君有る事お知りて、身ある事お知らず、国ある事お知りて、家ある事お しらず、臣たるの職此外有べからず、
一君の臣おつかふ事、礼お以てすべし、君の一言によりて臣義おいたす事あり、又然らざる事有 り、凡君徳あれば臣是に従ふ事、草の風に靡くが如し、
一人に君たる者は、其徳お明にして、民お治むべし、民おおさむるは慈悲の心お第一とす、
一君の心正しければ、善人近づき、たゞしからざれば佞人近づく、佞人ちかづけば、君お迷はし邪 路に導く、深くいましむべし、
一凡臣お仕ふには、其臣の安くして労する事なからん事お欲すべし、
一夫は唱へ婦は従べし、これ陰陽の道なり、およそ妻おめとるは子孫の為なり、賢徳お本とす、容 色に迷ふ心有べからず、また其人の分限によりて妻有らんに、是亦賢お択べし、容色おもて寵 愛すべからず、
一兄に恭敬おいたし、弟には慈愛お致すべし、共に父母の遺体なれば、相互に親みて疎にすべか らず、
一朋友は物おいひかはし、事お頼あふ者なれば、第一貞信にして相欺ざるお本意とす、
一人は益友お近づけ、損友お遠ざくべし、己に諂らふ人は、わきて害有と知るべし、
一凡そ人に交るには敬お主とす、たとへ酒宴おなし歓お尽すとも、礼容正しく敬の心お忘るべ からず、
一口舌は禍の門なり、口より出て我身おうしなふ、
一己が不機げんにまかせ、人お疎にし、無礼なるべからず、また己に才ありとも、是お以て人にほ こるべからず、一凡天下の人の中に、貧賤なりとていやしむべからず、富貴も貧賤も皆天のなせるなり、死生、命 あり、富貴天にあり、命なくば富貴もうけまじ、
一不徳にして富貴なれば驕お生ず、必ず其ふうきお保がたし、
一凡人の慈悲心厚く人お憐むお第一とす、又つとめて真実なるべし、内の誠なく、外の飾お専に する者は、必久しからずして変ず、譬へば紅葉の華やかなるは、忽に色の変ずるがごとし、
一人として万事に思慮なきは惡し、されど私意有べからず、みな学問によるべし、
右は自いましめ、また己〈○松平定信、時年十三、〉と同じき童蒙にも告げんとて、明和七のとし睦月の初、 武城の側にしるしぬ、