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細川頼之記
貞治六年四月六日、鎌倉之左馬頭基氏〈○足利〉卒す、〈○中略〉上杉入道〈○憲顕〉に、若君春王殿お守立可申の由被仰付、但東国の事は、将軍の仰に随ふべし、又若君の御事は、千葉介、結城大蔵次郎、河越治部少輔お深く頼むべきよし、御遺言ありと也、基氏に不替、東国の管領は、春王九に被補共、一往辞退すべし、猶押て御教書お賜はらば、上杉父子お執事として、千葉介直胤、小山朝明等、評定衆に加て、諸事お相計ふべし、欲心内にあれば、嗜といへども行ひに顕るものぞかし、今世の政道の邪魔は、欲心に過たるものなし、又東国に朝敵起らば、時日お不移、上杉父子、春王丸お具して、兵お発して誅殺すべし、常に武備お不忘用意し、其期に臨て、少も滞ることなかれ、朝敵のあらんかぎりは、鎌倉に帰るべからず、其場に何箇年も在陣すべし、軍中の戒は怠に有、敵小勢なりとも、あなどり油断すべからずと被仰置けり、