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甲陽軍鑑
十二/品第三十九
信玄〈○武田〉分別の事に、総別五年已来より此煩大事と思ひ、判おすへおく抵八百枚にあまり可有之と被仰、御長櫃より取出させ、各へ渡し給ひて、仰らるゝは、諸方より使札くれ候ば、返札お此紙にかき、信玄は煩なれ共、未存生ときゝたらば、他国より当家の国々へ手おかくる者有まじく候、某の国取べきとは、夢にも不存、信玄に国とられぬ用心ばかりと、何も仕候へば、三年の間我死たるおかくして、国おえづめ候へ、〈○中略〉又それがしとぶらひは無用にして、諏訪の海へ、具足おきせて、今より三年目の亥の四月十二日にしづめ候へ、信玄のぞみは、天下に旗おたつべきとの儀なれども、かやうに死する上は、結句天下へのぼり仕置仕残し、汎々なる時分に、相果たるより、隻今しゝて、信玄存命ならば、都へのぼり申べきものおと、諸人批判は大慶なり、就中弓箭之事、信長家康果報のつよき者共と、取合おはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覚たり、〈○中略〉かまへて四郎合戦数奇仕るべからず、〈○中略〉信玄わづらひなりといふ共生て居たる間は、我持の国々へ、手ざす者は有間敷候、三年の聞ふかくつゝしめとありて、御めおふさぎ給ふが、〈○下略〉