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澀柿
明恵上人伝
秋田城介入道大蓮房覚智語て雲、泰時朝臣常に人に逢て語給ひしは、我不肖蒙昧の身たりながら、辞する理なく政お官りて、天下お治たる事は、一筋に明恵上人の御恩也、其故は承久大乱の後、在京の時常に拝謁す、或時法談の次に、いかなる方便お以てか、天下お治る術候べきと尋申たりしかば、上人被仰雲、何様に苦痛顚倒して、一身穏ならざる病者おも、良医是おみて、これは冷より発たり、是は熱におかされたりとも、病の発たる根原お知りて、蘂おあたへ、灸お加れば、則其冷熱さり、自病退き身体快がごとし、かやうに国の乱て治がたきは、何に侵さるゝぞと、先根源およく知給ふべし、さもなくて今日の前にさし当たる罪過ばかりおおこなひ、忠賞ばかり沙汰し給はば、弥人の心かたましく、わゝくにのみ成て恥おも不知、前お治ば、後より乱、内おなだむれば、外は恨つきずしてしづまり治べからず、これ妄医寒熱お不弁して、一旦苦痛の有所お灸し、先彼が願に随て猥に薬おあたふるがごとし、忠おつくして療すれ共、病の発たる根源お不知故に倍病悩重て不愈がごとし、されば世のみだるゝ根源は、何よりおこるぞといへば、隻欲お本とせり、此欲心一切に変じて、万般の禍となる也、是天下の大病にあらずや、是お療せんと思ひ給はゞ、先此欲心おうしなひたまへ、天下おのづから労せずして治るべしと雲々、泰時申雲、此条最肝要にて候、但我身計は、心の及候はん程は、此旨お堅守べしといへども、人々此無欲にならずば、天下治がたし、如何して此無欲の心お、人毎に持する謀候べきと雲々、上人答たまはく、其段はやすかるべし、隻大守一人の心によるべし、古人曰、未有其身正影曲、其改政国乱と雲々、此正といふは無欲也、又雲、君子居其室言出、善則千里外皆応之と雲々、此善といふも無欲也、隻大守一人、実に無欲に成すまし給はゞ、其徳にいふせられ、其用に恥て、国家の万民、自然に欲心うすく成べく、小欲知足ならば、天下やすく治るべし、天下の人の欲心深訴来らば、我欲心のなおらぬゆへぞと知て、我方に心おかへして、我身お恥しめ給べし、彼お咎に行給べからず、縦ば我身のゆがみたる影の水にうつりたるおみて、我身おば正しくなさずして、影のゆがみたるお嗔て、影お咎に行はんとせむがごとし、心ある人のそばにて見て、おこがましく思事也、〈○中略〉されば大守一人の小欲に成給はゞ、一天下の人皆かゝるべしと雲々、此教訓お承しに、心肝に銘じて、深く大願お発し、心中に誓て、此趣お守き、〈○下略〉