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鳩巣小説

一平生〈○後光明天皇〉御酒お御好み被遊候時分、劇飲にも及はれ候、諸卿の内、忠節お被存候衆中は、ひそかに気の毒に存られ、玉に瑕とは、此事にて可有之候、誰力可然宿老衆、諫言も被奉候半と申あひ候、或時宵の間御酒宴はじまり、例之通御大酒に可及御様子に候処、徳大寺殿〈○公信〉被罷出、御平生御酒御好み被遊候上、又時として、御大酒にも及はれ候事、第一御養生の為に不可然候、殊に程朱の学にも、御志深く御座被成候には、近頃御似合不被遊候御事の由被申上、常々何れも此段申合候義に御座候と、急度被申上候処、大ひに天気お損じ、推参成事お申ものかな、打切てくれ申さうと、勅定候処、徳大寺殿、従容として被申上候は、神武天皇以来、天子の御自身、大臣たる者お、御手打に被成候事承不及候得共作恐諫言おさへ御用ひ被遊候はヾ、誠に以本望に候旨、被申上候、傍輩の衆、先徳大寺殿御次に退け申候、主上は、御剣お御さげながら入御被遊候、猶御宴も止み申候、何れも徳大寺殿へ被申候は、御忠節は感入候得共、時節あしく、逆鱗も甚敷罷成、近頃不興に存候旨、被申候得ば、某は左様に不存候、今夜の御酒宴も、御大酒に可被け尺と存候処、不興には候得共、御宴も止み申処、責ての本望に候と被申候て、宿処へ被帰候、翌朝主上常の御座へ出御被成、小倉宰相とやらん御近習の方へ被仰候は、昨夜徳大寺へは近頃の過言お被仰、御無礼かたがた御後悔被遊候、今朝迄御寝も不被遊候、徳大寺は、最早出仕は致まじき旨、勅定有之候処、徳大寺は疾より出仕、天気お伺ひ罷在候旨、申上奉り候得ば、思沼の外にて、左候はヾ、徳大寺へ可申聞候、昨夜の御逼言、御はづかしく思召候、最早徳大寺へは、御逢も難被成候、但し徳大寺さへ罷出候はヾ、御直に被仰渡義有之旨、被仰出候、徳大寺殿被承候て落涙のみにて、兎角の御請無之候、重ねて罷出候にとの事にて、御前へ伺公有之候処、昨夜の諫言猶の至りに思召候、但し御過言の御誤、御恥け敷被思召候、御大酒の事、以来すきと御止め可被遊候、昨夜の御剣は、則昼の御剣にて候、唯今徳大寺へ被下候由にて、御直に被下候、今以て徳大寺殿に、其御剣有之よし、此義も雷鳴同事にすきと御過酒御止被遊候よし、