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源平盛衰記
三十四
法住寺城墎合戦事
木曾は蒙勅勘由聞て申けるは、〈○中略〉是は鼓〈○平知康〉めが讒奏と覚ゆ、其鼓に於ては、押寄て打破て捨べき物おとて、齘おして急げ殿原殿原と下知しつヽ、鎧小具足取出して、ひしめきければ、今井樋口諫申けるは、十善の君に向奉て、弓お引矢お放給はん事、神明凱ゆるし給はんや、隻幾度も誤なき由お申させ給て、頸お延て参給へ、縦知康に御宿意あらば、本意お遂給はそ事いと安き事也、私の意趣お以、院御所お責られん事、よく〳〵御計ひ有べしと教訓しけれ共、木曾は張魂の男にて、雲たてぬる事おひるがへらぬ者也、我年来多の軍おして、信濃国おへあひの軍より始て、横田河原、礪波山、安高、篠原、西国には、備前国福輪寺畷に至まで、一度も敵に後お見せず、十善帝王にて御座とも、冑おぬぎ弓おはづして、おめ〳〵と降人には参まじ、左右なく参て鼓めに頸打きられなば、悔とも益有まじ、義仲に於ては是ぞ最後の軍なる、よし〳〵殿原直人お敵にせんよりは、国王お敵に取進たらんこそ、弓矢取身の面目よとて更に不用けり、〈○下略〉