[p.0252][p.0253]
源平盛衰記
三十五
木曾惜貴女遺事
木曾は院〈○後白川〉御所おば出たれ共、軍場には不出けり、五条内裏に帰て、貴女の遺(なごり)お惜つヽ、時移るまで籠居たり、彼貴女と申は、松殿殿下基房公の御娘、十七にぞならせ給ける、無類美人にて御座ければ、女御后にもと労りかしづき進けるお、木曾聞及奉て、押て奉掠取、御心憂は思召けれ共混(ひたす)ら荒夷にて、法皇おも押籠進せ、傍若無人に振舞ければ、不及御力事なりけり、賤が編戸の女にも、馴なば情は深して、別路は猶悲きに、まだ見も馴ぬ御有様、さこそ名残は惜かりけめ、斯る処に越後中太能景馳来つて、敵は既に都に乱入れり、如何に閑に打解給ひ、角はと雲けれ共、引物の中に籠り居て、尚も遺お惜けり、能景弓矢取身の心お移まじきは女也、隻今恥見給はん事の口惜さよとて、今年三十六に成けるが、縁より飛下腹掻切て失にけり、加賀国住人津波、田三郎も此由雲けれ共出ざりければ、御運ははや尽給にけりとて、引物の前にて此も腹切て臥にければ、津波田が自害は義仲お進むるにこそとて、百余騎の勢お率して、五条の東へ油小路お直違に、六条河原へ出たれば、根井行親楯六郎親忠等、二百余騎にて木曾に行逢、主従勢三百余騎、轡お並て見渡せば、七条八条の河原、法性寺柳原に白旗天にひらめきて、東国の武士隙お諍て馳来る、