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甲陽軍鑑
九/品第十九
一右亥の年中〈○天文八年〉は、晴信公無行義にてまします事、中々其時代の衆、物語仕ながらも、残さず申事は、成がたきほどの様子と相聞え候、其子細は、若小殿原衆、或若女房達おあつめ給、日中にも、御座敷の戸おたてまはし、昼といへども蠟燭おたて、一切夜昼の弁もなく、夜るは乱鳥までの狂、〈○中略〉適〻おもてへ御出の時分は、出家衆おあつめ、詩おつくり給ふ、〈○中略〉板垣信形、詩およく作る出家お近付、其身のやどに三十日あまり、右の出家おおき奉り、御前の出仕は、虚病おかまへ、万事おさし置、昼夜はげみて、廿五六日の間に、板垣信形詩作様おならひ、さて其後御城において、詩の短冊ありし時、板垣縁に畏罷有、我等にも一首仰付られ候へと申、〈○中略〉板垣信形申は、是より能作候事は、今から幾年許にて罷成べく候やと申上る、晴信公宣は、是からは能作らん事、連々に少も苦労有まじと仰らるゝ、そこにて板垣申上る、晴信公詩お作り給ふ事、大方になされ候へ、国持給ふ大将は、国の仕置、諸侍おいさめ、他国おせめとりて、父信虎公十双倍、名お取給はば、信虎公と対々にて御座候、子細は、信虎公の御無行儀にて、婬乱無道まし〳〵、或はふかき科ある者おも、大方の科人おも、同前に御成敗あり、御身の腹さへ立給へば、善も惡も弁なしに仰付られ、御機に入たる者には、一度逆心の族にも、卒爾に所領お下され、忠節忠功の武士おも、科なきに、頭おあげさせ囚様にあそばし、万事逆なる御仕置お、信虎公の非道と御覧あり、父にてましませど、追出し給ふ、晴信公三年もたゝざるに、御身のすき給ふ事おすごして、心のまゝにあそばすは、信虎公の百双倍も、惡大将にて御座候と、いさめ申事、御立腹にて、板垣お御成敗に付ては、猶御馬のさきにて討死仕ると存ずるなりと、申上れば、晴信公そこにて会得まし〳〵、板垣信形お御寝所へ召つれられ、涙おながし誓紙おあそばし、無行儀おなほしなさるゝ儀、天文八年己亥十一月朔日、晴信公十九歳の御時也、