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陰徳太平記
十七
冷泉隆豊諫言之事
都督義隆卿諸迢の奥儀お研めんと、小伎芸に心およせ、武の学廃れ果、軍政号令の評論は失口にだも不説、〈○中略〉冷泉判官隆豊は此形状お熟見て、是偏に当家泯滅の時至れりと、歎き思しかば、或時義隆卿お諫て雲、公の御行跡お奉見に、更に夢共不覚、幻共不弁候、〈○中略〉去年浄福寺の新発意意伝が学問の為に、京都へ上せられしに、内外の学一字も不勤、唯投節(なぐぶし)声の小歌諷ひ、蜘舞猿楽お習、酒宴遊興お事と仕由聞召、頓て召下して、見懲の為にとて、重科に被行候き、家業お不勤の科お論ぜぱ、今屋形の御行跡も、隻一般にてこそ候へ、見賢思斉、見不賢内自省の聖言は、能学得せさせ給はずや、唯今の御行跡改られずんば、当家滅亡し、琳聖太子已来の血脈、断絶の時至るにてこそ候へ、忠言逆耳、良薬苦口習にて候へば、比干、伍子匹が例に任せて、被行刑にてや候はん、されども主暴不諫非忠臣也、畏死不言非勇士也、見過則諫、不用死忠之至也と申せば、たとひ身お車裂にせらるヽとも、何の恐れ悔る所か候べきと、一度は侵顔、一度は流涙て諫めければ、義隆さすが物の上手にてましませば、女が諫言、至極の道理に帰せり、是偏に先考の厳命とこそ覚ゆれ、将来は武お専とし、軍政の評論、朝夕に不可怠とぞ宣ける、