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総見記

信長公於江州佐和山城浅井備州御対面事
信長御機嫌能、夜すがら打とけ、御酒宴有て臥し給ふ、其夜遠藤喜右衛門は、早馬に鞭お進め、急ぎ小谷へ馳帰て、備州長政おいさめて申しけるは、信長は大かたならず、表裏の深き大将なり、扠行跡お能々見るに、其智略のはやき事は、誠に猿猴が梢お伝ふに相似たり、当家お縁者に組、馳走懇切被申も、隻上洛のため、当分ばかりの事なるべし、功成り名遂げ給ふならば、朝倉も当家も、必敵にしたまふべし、又始終信長の御意に入給ふ様には、中々思ひもよらぬ事なるべし、其時信長と戦ひたまはヾ、一定軍に打負て、後悔更に甲斐あるまじ、然れば今夜柏原にて二百余人の供の者は、皆々町屋に寄宿して、信長自身は酔伏し給ひ、御傍には小姓共の十四五歳なる奴原が、二三人眠り居たり、此節某一人に被仰付候べし、今夜罷帰て、信長お安々と討取り申べし、二百余の供侍は、大将討るヽ其上は、手間もとらず討捨べし、其競に、濃州へ切て入り、岐阜の城お攻るならば、城主は有まじ、家督は幼少也、ひし〳〵と味方に参て、美濃尾張両国は、時日お不移攻取るべし、然らば其威勢に乗じ、六角父子お押倒し、帝都へ攻上て、天下の仕置お助けん事、誠に以、当家の興廃、隻此一挙に有べしとて、詞お放て諫めけり、備州長政も、しばらく案じ、家老一族お集めて、ひそかに相談せられけるが、〈○中略〉遠藤が諫めお用ひ給はず、早々罷帰て、明朝又馳走申候へとぞ被申付返されける、