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陰徳太平記
五十八
伊東三位与島津義久合戦附三位豊後〈江〉退散事
斎藤重実諫て雲、伊東無他事頼被申上は、可有御進発事、猶義に当て覚候、作去退て愚案お運し候に、今度日州御発向、好々御思惟有べき事に候、如何にと申に、毛利家先年立花に於て、敗北仕候已後、積憤甚くして、今一度筑前へ乱入し、曾嵇の恥お雪ん事お思ひ、当家の鏬お窺ふ由承候、然れば今度日州御越候はヾ、島津と合戦に日数お送るのみならず、是お事の階として、已来攻戦隙無るべし、左候はん時は、毛利家其虚に乗じ、筑前国へ働き出ん事、必定たるべく候、然有ん時は、筑前は已前毛利家に従し国なれば、はら〳〵と靡き従候なんず、又竜造寺も朝不及たして、反覆する不実の仁なれば、輝元義久に被嫌に於は、手合すべき事、治定して覚え候、隆信一人にさへ、軍士三万は可有之間、及合戦候共、容易には切崩難く候べし、左有らん時は、高橋鑑種、秋月種実も、同惡相求事如市賈之型や候はん、然ば御領国、四戦の国と成ん事、可為必然候、是お思へば、今度の一挙、御当家傾廃の端にて候べし、此度の御事は、御身に当りたる事にも候はず、今且時節お御覧じ候べしと、頻に諫言お加けれ共、宗麟更に無許容、弥近日日州発向とぞ触られける、鎮実お始め皆力不及退去せり、