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岩淵夜話別集

一家康公岡崎の御城に被成御座候時、勅使上使などの有之時、饗応の為、長三尺程づゝの鯉三本、生洲の中に為放置らる、然る処鈴木久三郎、件の鯉壱本取上させ、御台所にて料理申付、其上信長公より参たる南都諸白一樽、口お切せて呑喰ひ、人にも振舞に付、定て鯉も酒も拝領致ての義なるべしと存候処、程過て御活洲お被成御覧候時に、三本の鯉二本ならで見へず、活洲預りの坊主お召て、御尋被遊候へば、鈴木久三郎取上させ料理致し、並南都諸白の口お切、其身も給、人々にも振廻候と申上る、家康公以の外怒らせ給ひ、御台所お御吟味被成候処、弥其通りなれば御機嫌損じ、御自身御手討に可被遊と被仰出、御長刀の鞘おはづし給ひて、広椽に立せられ、鈴木お召禹さるゝ、久三郎覚悟致し、聊わるびれたる気色なく畏り候迚、御路治より罷出候、其間三十間計あつて畏る、鈴木不届者め、成敗するぞと御詞お掛させられ候へば、久三郎は大小おぬき、五六間跡へ投出し、大の眼に角お立申けるは、抑魚鳥に人間お替るといふ事あるものにて候や、左様の御心にて天下の望は成まじく候、我等事は被成度よぶに可罷成と言て、大肌ぬぎになつて、御側近く寄所に、御長刀お捨させ給ひ、最早免すそと仰られて、其まゝ御座敷へ被為入、則久三郎被召出、其方忠節深き心入の程感じ入、満足に思ふゆへ、先日鷹場にて鳥お捕、城の堀にて網お打し雨人の徒の者共、隻今赦免するぞと仰られければ、久三郎涙お流し、私体の寸志お如斯御取上被成被下置候は、近頃難有義に御座候、偏に天下お知し召るべき瑞相なりと申上けると也、