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完政重修諸家譜
三百九/浅野
長政〈○中略〉 明国、沈惟敬おして和おこひしかば、長政等名護屋の陣営に至りて、このよしおつぐ、太閤これお許容ありといへども、いまだその事とゝのはず、明兵日々にくはゝり、後援の将渡海せざりしかば、先手の諸将加勢おこふことしきりなり、こゝにおいて太閤、東照宮および前田利家等と日夜軍議あり、時に太閤みづから彼国におしわたりて、征伐せんとありけるに、諸将あへて口おひらくものなし、長政ひとりいさめていはく、みづから渡海あらんは、国家の亡ぶべきはしなり、今日船お出したまはゞ、明日はかならず国々に凶徒おこるべし、しからば進みては彼国おうつ事あたはず、退きては賊徒お征せむ事かたからん、これ危亡の道なりと、太閤聞て大に怒り、長政お引たて禁籠せしめんとす、東照宮しいてこれおとゞめ、長政おして宿所にかへらしめたまふ、二年、薩摩国の梅北宮内左衛門某一揆おおこし、肥後国お掠め、熊本城お襲ひとるのよしつげありければ、太閤大に驚き、諸将おあつめて評議せられ、長政は肥後国の案内者たるにより、まづ彼おつかはすべしとて、すなはちめし出され、太閤仰ありけるは、先に女が諫めしところ、今日はたして其然る事おしれり、すみやかに彼国におもむき、賊徒の虚実おうかがふべしとなり、