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藩翰譜
四上/榊原
康政夜に入て、徳川殿の御前に参り申すやう、こたび中納言殿〈○徳川秀忠〉御不審蒙らせ給ふ事、康政等が罪科、最も軽かるべからず、たゞし風聞の及ぶ所、中納言殿上田の城お攻おとし給はず、又押ても御通りなく、殊に海道の合戦にも、あはせ給はぬ事お、御不審ありと承り候ひぬ、若し此条に候はんには、恐れある申事に候へども、殿の御誤りなきにしもあらず、〈○中略〉康政重て申けるは、また上田の城お攻め給はざりしは、古い者共が、強ちに諫め止めまいらせし故なりき、中納言殿には、攻破つて御通り有べしと、御諚ありしかど、年老たる輩お附け参らせられし事は諫おも進め謀おも献れとの御事に候、たとへ御心に協はせ玉はぬ事なりとも、我等が諫に従はせ給はんが、大殿の御心に任せらるゝにあらずやと、申ける上は、御心にも任せ給はず、されば彼城お攻めう攻めじの争ひにも、日おこそ移し候ひつれ、それ父子の御中にて、わたらせ給へば、凡の事の御教訓には、如何ほどの御勘気も、など無からざらん、御年も壮にならせ玉ふ御子の、行末は天下の事おも知召さるべきお、弓矢取ての道に、父の御心に協はせ給はざりしと、人の侮り申さんは、御子の恥辱のみにあらず、父の御身にも、如何でかその嘲りお免かれさせ玉ふべき、これ程の御遠慮ましまさぬこそうたてけれと、涙お流し諫め奉れば、徳川殿御心とけて、明れば九月廿五日、伏見の御城にて御対面在て、海道の軍のやうお御物語あり、山道の事おも問せ玉ひしかば、中納言殿みづから御筆お染られ、康政が此度の心ざし、我が家の有らん限りは、子々孫々に至るまで、忘るゝ事あるまじき由の御書お給はりしとぞ聞えたる、