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吉備烈公遺事
一公〈○池田光政〉孝経お講ぜさせられし時、争臣の章に及で、大臣池田出羽、池田伊賀に猶心お援に用らるべし、予によからぬ事あらば必諫らるべし、又各にも人の諫ん事能請容られよと仰ありしかば、一座皆感じ奉りし時に、中川謙叔〈権左衛門〉進出て、隻今の一言、国家永久お保せ給ふべき兆なり、然共公は厳威ありて殊に聡明におわします、亦痘疱のあと容貌甚見ぐるしく、眸子かゞやきて見むきがたし、たま〳〵怒り発させ給ふ時は、一目とも見られずと人々申候、かゝる事にていかでか御諫言お申人の候べき、公先色お柔和にして、諫る者お賞し賜はゞ、言路開けて御益あるべしと申ければ、公其直言お称せらるゝ事大形ならず、謙叔退出せしかば、加世次春あまりなる申上様哉と雲しお、謙叔人臣の職、自己の利お思ふために設たるにあらず、国家の為に無礼お忘れたりと雲しとぞ、此謙叔は中江惟命の高弟の弟子なり、