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常山紀談
二十四
会津中将保科正之は、台徳院殿〈○徳川秀忠〉の第九男にておはせしが、殊に豪気あり、近習の人に向ひて、人々のたのしむ所お尋ねられしに、小櫃与五右衛門といへる者、臣が楽む事二つ有、其一つは、家貧しくて奢といふ事おしらず、天より命ぜられし貧おたのしむよしお申す、其一つお問るゝに、是は憚る所の候とて言ず、しひて問れしかば、謹で申けるやう、大名に生れざるお、天の冥加と存じ、たのしむ処なりと答へければ、その子細お問るゝに、大名は、天性かしこくおはし候ても、臣下これお馬鹿にとりなし候、禄少き身は、其師や朋友、あしき事お戒め諫め候故に、其身お省て、馬鹿にならず候へども、大名はさはなく候、臣たる者、とかく忤らひては、身の為よからじと存じて、其主のよき事あれば、山の如くにほめ申、いろ〳〵の悪き習はしお付候ほどに、いつとなく資になりもて行、それよりは一言の諫おも申がたく候、いかに聡明にても、学問もなく、教といふ事おしらず、善事お弁へ給ふべきやうなきゆえ、馬鹿になりはて候は、口おしき事に候はずや、臣大名に生れざるお楽と存候は、此子細に候と申せば、中将つく〴〵と聞召て、よくもいひたるかな、猶至極せり、今より馬鹿に成ざる思慮すべきよとて、賞美のあまり、即二百石の禄お増与へられけり、それより山崎嘉右衛門お尊信し、学問お嗜れ、後神公と諡せしは、此中将の御事なり、