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落穂集
前編九
大谷佐和山の城へ相越候得ば、石田は大に悦び、大谷お閑所へ誘ひ、今度存立の趣お、一々申聞ければ、大谷聞て申けるは、是は以の外成不了簡にて候、江戸の内府〈○徳川家康〉などお大体の人と被存候哉、其段は我等の申迄もなく、其許にも淵底の事に候、子細は故太閤〈○豊臣秀吉〉の、常常我等どもへ被仰聞候にも、家康の儀は、智勇ともに備りたる人なるお以、我等のよき相談相手と思ひて、馳走致す儀也、熟れもの合点の行ことにてなしと有儀お、毎度仰つる儀也、然るに其内府お相手に致され、弓箭に被及候と有は、沙汰の限りと可申候、無益の儀お被相止、我等と同道致され、会津表江発向の外は不可有旨、制止お如へければ、三成重て申けるは、貴殿の異見に随ひ、存留り度候得共、最早左様には不罷成候、〈○中略〉時に大谷申けるは、〈○中略〉其許へ申入度儀、両条有之候と也、三成聞て、それおこそ願存る儀なれば、たとへ如何様の儀たり共、被申聞給り候様にと有之に付、大谷申けるは、総て其許には、諸人へ対し被申ての時宜作法、共に殊の外法外に候とて、諸大名お始め、末々の者迄も、日頃惡敷取沙汰お申由也、江戸の内府などは、家柄と雲、官位と雲、其上当時日本に双なき大身にも有之候得共、諸大名方の義は申に不及、小身軽々の者に被逢候ても、慇勤に致され、それ〳〵に言葉おかけ、愛想らしく有之に付、諸人の存付も格別に相見へ候、諸人の上に立て、事お執ると有に付ては、下の思ひ付甲斐なくては、不罷成事に候、其許手前などの儀は、一向小身者にて有之候お、故大閤の御取立お以、大身に経上り候と有は、諸人よく存知たる儀なれば、公儀の御威光お以、人々上べ計りは尊敬致す如く有之候ても、底意に於ては、中々左様は無之候間、此段能々被致分別、今度の儀も、毛利輝元浮田秀家両人お上へ立、其下に付て事お被取計候如く、心得不被申しては、事行間敷候間、左様に合点致され、猶の事に候、外に一け条申入度事有之候得共、是はいかに心易き間柄にても、申憎き儀なれば、申兼候と也、三成聞て申けるは、尋常人の申にくきと有儀お、被雲聞てこそ、知音の甲斐も有之義なれば、少しも無隔意被申聞給り候得と、願にまかせ、大谷申けるは、先程も申通り、於武家第一と仕る処は、智勇のこつに止りたる事に候、其許の義、智恵才覚の段に於ては、双ぶ人も無之如く有之候得共、勇気の一つは不足有之歟の様に被存候、差当り其証拠お可申候、今度の大義に於ては、輝元秀家お始め、其外一味の諸大名と申ても、皆々仮令の事にて、其根元は其許一人の存立より、事起りたる儀なれば、人より先に身命お抛ち可被申と有、覚悟お不被定しては不協儀也、然るに於ては、他人のかおかられ候迄も無之、一万に及ぶ人数お被持候こそ、幸ひの儀なれば、水口の長束などに被示合、内府関東へ下向あられ候節、石部に旅宿いたされ候、夜中押懸焼討に被致候に於ては、疑もなく勝利お可被得処に、左様の大事の場所おば、手延に致され、内府お無恙関東江被下候と有は、虎お千里の野辺江放すも同然の儀にて、大なる油断と申ものにて候、此已後は四つ沓お打たる如くに計り被心得、あぶなげもなく、勝計りお好れ候と有は、宜しからぬ事にて候と、大谷異見被申候得ば、三成大に赤面致しながら、過分不浅旨申述候と也、夫より大谷は関東下向の儀お相止、大坂へ罷登り候と也、