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駿台雑話

直諫は一番鎗より難し
駿府の御城に御座なされし時、御側に侍座の衆へ上意〈○徳川家康〉ありしは、人君はよき家老お持べき事なり、我常におもふに、主君の惡事あるお見て、主君の怒おもかへり見ず、諫言おいるゝ家老は、戦場にて一番鎗おするよりも、遥にまさりたる心ばせといふべし、其子細は、敵に向て勝負おするも、身命おかばひてはならぬ事なれども、必敵にうたるべきにもあらず、たとひ討死しても、世に名おのこし主君にもおしまれぬれば、死しても本望なる事なり、又敵お討取ぬれば、主君の感にあづかり、恩賞お得て子孫にも伝れば、戦場のはたらきは、生死ともに心にいさみあるべし、それとはちがふて、主君の無道なるおなげきて、しば〳〵直諫すれば、忠言耳に逆ふ習にて、主君の心にあはぬ程に、常にいとひ嫌はれて、たゞ礼貌にてあひしらはれ、日に疎遠になるものなり、それに新進容悦の諂ひもの共、件の家老お事にふれて讒する程に、日お逐て主君の目見せあしくなりて、何おいふても用られず、其時はいかなる忠臣も退屈する故に、或は病気と称し、或は致仕おねがふて、身お引退く分別するぞかし、然るに主君の気に背くにもかまはず、いくたびもすすみいでゝ極諫しなば、主君怒お積て手討にするか、又は押こめて出さぬやうにするにてあるべし、それお露も心にかけず、たゞわが報国の志おつくして終るは、世にありがたき忠臣といふべし、是に比すれば、戦場の一番鎗は反てやすき道理なりと、仰られしとなん、誠に万世御子孫の御事は申に及ばず、すべて人君たる人の永き鑑戒となるべき御言葉どもなり、