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藩翰譜
十二/上加藤
肥後守藤原清正、〈○中略〉されば朝鮮の軍一度起りしより、兵連なること前後七箇年の間、本朝の人々、所々の戦功、皆取り〳〵なりしかど、清正一人大明朝鮮のために名お呼ばれ、或は詩に作りて謡ひ、或は神となして祭らる、弓矢とつての誉、古今に並ぶ者ぞなき、
按ずるに、大明万暦よりこのかたの書に、清正が名お称する事挙げて数ふべからず、崑山の王志堅といふ者は、倭王と称して歌お作る、又朝鮮国慶尚全羅道等の水営の軍官、年毎に日お占ひて、諸営戦艦お集め、海に浮みて海神お祭る事あり、芻にて人像お作り、是お射て海に鎮む、人は秘しぬれども、よく聞けば、是れは清正お呪咀する事にてありけり、その人像は清正にかたどる、彼国の能く射る者といへど、恐れて終に中つる事協はず、いづれの頃にや、一人射て中てたりしお、双なき高名といひけるに、忽ち物に狂つて飛び走る、其親戚清正お祭て、いろ〳〵と罪お謝しければ、其後人心地にはなりぬ、此後人いよ〳〵恐れて中たらん事お恐る、本朝完文の中頃に、例の祭とて水営の戦艦共海に泛みしに、海上風忽に吹き落て、波わぎ、艦多く摧け破れぬ、これ清正の祟りなりとて、大に恐れしといふ事お対馬の国人に窃かに承りぬ、