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太平記
三十四
平石城軍事附和田夜討之事
竜山、平石、二箇所の城落しかば、八尾城も不怺、今は僅に、赤坂の城計こそ残りけれ、此城さまでの要害共不見、隻和田楠が館の当りお、敵に無左右蹴散されじと、俄に構たる城なれば、暫もやは支るとて、陣々の寄手一所に集て、廿万騎、五月〈○延文四年〉三日の早旦に、赤坂の城へ押寄せ、城の西北卅余町が間に、一勢々々引分て、先向城おぞ構へける、楠は元来思慮深きに似て、急に敵に当る機少し此大敵に戦はん事難協、隻金剛山へ引隠て、敵の勢のすく処お見て後に戦はんと申けるお、和田〈○正氏〉はいつも戦お先として謀お待ぬ者なりければ、都て此義に不同、軍の習ひ負るは常の事也、隻可戦所お不戦して、身お慎むお以て恥とす、さても天下お敵に受たる南方の者共が、遂に野伏軍計しつる事のおかしさよと、日本国の武士共に笑れん事こそ口惜けれ、何様一夜討して、大刀の柄の微塵に砕る程切合んずるに、敵あらけて引退さは、軈て勝に乗て計べし、引ずんば又かなく、其時こそ金剛山の奥までも引籠て戦んずれとて、夜討に馴たる兵三百人勝て、問はヾ武しと答へよと、約束の名乗お定めつヽ、夜深る程おぞ待たりける、