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神田本太平記
三十二
京軍事
やがてさがみの守の郎従十四五きはせ来りたるに、此くびとほろとおもたせて、将軍へ参り、清氏こそもゝの井はりまの守おうつて候らへとて、軍のやうお被申ければ、らつそくお明らかに燃してこれお見給ふに、年のほどはさもやと覚えながら、さすがそれとは見えず、田舎に往て多年に成ぬれば、おもかはりしけるにやとふしんにて、昨日降人に出たりける八田左衛門太郎おめされ、是おばたがくびとや見しりたるととはれければ、八田此くびお一と目見て沮おはらはらとながし、是は越中国の住人に二宮兵庫助と申すものゝくびにて候、去月に越前の敦賀について候らひし時、此二宮、気比大明神の御前にて、今度京都のかせんに、仁木細河の人々と見るほどならば、われもゝの井殿となのつてくんで勝負お仕るべし、是もし偽り申さば、今世にては永く弓矢の名お失ひ、後世にては無間の業おうくべしと、一紙の起請文お書て、宝殿の柱におし候らひしが、果して打死に仕りけるにこそと申ければ、其ほろおとりよせ見給ふに、げにも越中国住人、二宮兵庫助曝尸於戦場、留名於末代ぬとぞかいたりける、昔の実盛は鬢お染て敵にあひ、今の二宮は名字お替へて命おすつ、時代へだゝるといへども、其勇みあひおなじ、あはれ剛の者かなと、敵ながらいけておかばやと、おしまぬ人こそなかりけれ、