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白石紳書

一此宅右衛門が子熊谷宮内は、後に水戸光国卿に仕へけり、これ又不思讃なるものにて、能の達人なる由被聞召、度々被仰付けれ共、とかくに病気など申て絡に相勤めず、或時江戸にて客設の有し時、又々仰られしに、相勤可申由お申けるが、其日に至り必ず作病お仕、御断お申べくと思召けるに、何事なく相勤めけり、元より音に聞へし程の上手にて御感有けり、扠楽屋へ入と直に病と称し、五十日程不罷出、夫より後はたへて不被仰付、いかなる思召か有けん、頓て足軽お御預けありけり、御鷹野などの節は、いつも撰り人に召れらる、ある時夜話の折に、様々の咄お申しける、諸芸の咄になりて申けるは、士は第一芸の為に名お奪れぬ事大事也、惡敷心得ぬれば、肩に出来たる病の首お押のける如く、芸計りになりて、其身は無用の人と成候と申ければ、甚御感有て、さすがに親が子也と仰あり、其後御側の衆へ召れ、宮内が我等申付たる能お度々うけがはぬ事、いか様にも思慮有べしと思ひけるに、我等が所存の通にて満足也と仰有し、一両年の中に政事にも預りしとぞ、