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常山紀談

姉川の戦に、坂井右近が子久蔵、十六歳にて討死す、久蔵は十二の時、信長始て京に入し比、近江北郡にて鎗お合せたる剛の者也、三井角右衛門、生瀬平右衛門二人とも、久蔵が首お得たりといふ、二人後関白秀次に仕へければ、此事沙汰ありて、三井がいつはりなりとて、鷹部屋におしこめおきて罪に行れんとす、三井いのちお惜むに非ず、人の功名お盗たる惡名の子孫の恥とならん事、口おしければ、今一度詮議してたまはり候へ、証拠は浅見藤右衛門に問れなば、実否正しかるべしと訟たり、浅見お安土より呼れけり、浅見は生獺と久しき友なり、三井とは日比中よからず、不通なれば、疑もなく三井がいつはりに定るべし、三井惑乱して、浅見お証人にしたりと誹笑ふ人多し、さて聚楽の広間に奉行列坐して、雀部淡路守おもて尋問る、浅見承り、生瀬は年ごろの知音なり、三井とは不通にて候、是非世の人の評せん事も迷惑なり他人に仰付られよと懇に辞し申す、〈○中略〉秀次聞て重ねて辞すべからずとなりければ、其時浅見今は已事お得ず候、武義の論少も詐偽候まじ、坂井が首は三井がとりたるにまぎれなく、又其はたらきも比類少く候、生獺は何と存過たるにやといひければ、一座駭て、とかくいふ人なく、これによりて三井お赦て賞せらる、〈○下略〉