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神田本太平記
三十二
京軍事
三月〈○正平八年〉十二日は仁木、細河、土岐、佐竹、武田、小笠原あひ集つて七千よき、七条西洞院へおしよせ、 手は、但馬たんごの敵と戦ひ一手は尾張修理大夫高経と戦ふ、此陣のよせて千よき、高経の五百よきに戦ひまけて、引のきぬとさわぎければ、将軍いそぎ使者おたてられて、那須お罷り向ふべしとぞ彼仰ける、那須は此かせんに打出ける時、古郷の老母のもとへ、人お下して、今度のかせんにもし打死に仕らば、親にさきだつ身となつて、草のかげ苔の下でも御歎あらんおお見奉らんずる事こそ思ひやるも悲しく存じ候らへと申つかはしたりければ、老母なく〳〵委細に返事お書ひて送りけるは、古へより今に至る迄、武士の家に生るヽ人、名おおしむに、父母に別れお悲むといへども、隻家お思ひ名お恥るゆへに、おしかるべき命おすつる者也、始身体髪膚お我に受て残傷さりしかば、其孝已になりぬ、今身お立て道お行ひて、名お後の世にあげば、是孝の終りなるべく、されば今度のかせん、あひかまへて身命おかろくして、先祖の名お失ふべからず、是は元暦の古へ、那須の与一資高が壇のうらのかせんに扇お射て名おあけたりし時のほろなりとて、うす紅のほろお綿の袋に入てぞおくりたりける、さらでだに戦場に臨んでいつも命お軽んずる那須なれば、老母に義お進められて、弥よ気お励しける処に、将軍より別して使者おたてられて、此陣やぶれて難儀に及ぶうへは、いそぎむかはれ候らへと仰られける間、那須一義おも申さず、大勢の引き入て、敵みないさみ進める敵の真中へかけいつて、兄弟三人一族郎従卅六き一足もひかず打死にしけるこそあはれなれ、