[p.0327]
甲陽軍鑑
二/品第十
信玄家来年之備前之年談合之事
去年戌極月廿八日に、山県三郎兵衛尉所へ寄合、当亥年中の御備の義、信玄公御在世の時のごとく、各談合いたす時、長坂長閑、跡部大炊助跡より来る、内藤修理申は、〈○中略〉其方が、それほどによはきむねなる故、くろづらおふりたて、公界おせらる、抑かはゆき子おころされまいらせても、猶三代相恩の主君に、御とがめは申がたし、幸時移、年老ぬ、引籠後生一篇のやうにいたすならば、諸傍輩もあはれみ思ふべし、何ぞ大科おして、ころされまいらせたるむすこの意趣に、主君の御家おほろぼさんことお企て、あれほど強屋形の、しかも御年未三十にもたり給はぬに、色々すゝめ、異見お申、佞人お尽す、越臣範蠡には異なる者也、おのれ佞人お作らぬと、三岳の鐘おつけ(○○○○○○○)と雲、長閑腹おたて、己が分として、某に三岳の鐘おつけと、百姓あてがひの申様、口惜き次第也、其方こそ元来工藤源左衛門とて、兄お古信虎公の御手打にきられ申、其後信玄公へ種々軽薄おいたし、御意お取請、今内藤修理に成せられ、二百五十騎の将おするといへども、何方にて何たる手柄おしたると、是非いへと雲て、脇指に手おかくる、内藤刀おとつて、さやがらみうたんとす、〈○下略〉