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源平盛衰記

鹿谷酒宴静憲止御幸事
近藤左衛門尉師高、きり者也ければ、撿非違使五位丞まで成て、安元元年十一月廿九日に、追儺の除目に、加賀守になる、〈○中略〉
涌泉寺喧嘩事
目代師経在国の間、白山中宮の末寺に涌泉寺と雲寺あり、国司の庁より程近き所也、彼山寺の湯屋にて、目代が舎人馬の湯洗しけり、僧徒制止して、当山創草より以来、いまだ此所にて牛馬の湯洗無先例と雲けれども、国は国司の御進止なり、誰人か可奉背御目代とて、在俗不当の輩散々に惡口に及て、更に承引せざりければ、狼藉也とて、涌泉寺の衆徒蜂起して、目代が馬の尾お切、足打折、舎人がそくびお突、寺内の外へ追出す、此由角と馳告ければ、目代師経大に憤つて、在庁国人等お駆催して、数百人の勢お引率して、彼寺に押寄て、不日に坊舎お焼払、〈○中略〉八院三社の太衆、三寺四社の衆徒、不日に衆会して僉議して雲、謹て白山妙理権現の垂跡お尋奉れば、日本根子高瑞浄足姫御宇〈○元正〉養老年中に、鎮護国家の大徳神、融禅師行出し給て、星霜既に五百歳に及て、効験于今新なり、日本無双の霊峯として、朝家唯一の神明也、而お目代師経程の者に、末寺一院お被焼亡て、非可黙止、此条もし無沙汰ならは、向後の嘲不可断絶、
白山神輿登山事
糺断遅々の上は、神輿お本山延暦寺に奉振上訴申さんに、大衆定贔負せられば、訴訟争か不達、若目代師経に被枉て、理訴非に被処者、我、寺々に跡おとヾむべからずと儀定して、各白山権現の御前にして、一味の起請お書(○○○○○○○)、灰に焼て(○○○○)、神水に浮めて呑之(○○○○○○○○)、身の毛竪てぞ覚ける、