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藤葉栄衰記

須賀川上下神水之事
爾程に、須賀川御旗本衆二心なく、上下志お一つにして、残らず登城ありて被申は、西方衆草の風に靡くが如く、正宗へ皆な思寄ければ、当地の人の心お我れ存ぜず、又膝お交え肩お双ぶる傍輩も、某が心お不可被知、今度無二心命お捨て、伊達勢に向ひ防ぎ戦ひ、武勇の働きおせられんと被存詰衆は、身不肖なりと雲とも、志お一筋に守り、心底お白地に顕はし、誓又お以て互に傍輩の中、疑心なく一味同心に合戦して、我も人も討死せんには、何の恨力有らんと雲ければ、此儀可然とて、千用寺秀芸法印と如林寺明良法印と、両寺登城有て、明良法印誓文お遊し(○○○○○)、熊野の牛王お灰に焼て酒に呑ける(○○○○○○○○○○○○○○○)時に至て、誰人も飲始る方なく、小時滞りける処に、浜尾三河守被申は、此酒隻今の内此へ被参たる程の人、上下共に呑ざるは一人も有まじ、早く呑たる者は罰お蒙むり、遅く呑たる人は神罰お不当ざるにはあらず、前後の吟味も不入、盃の鱧も不可入る也、然りと雲ども天正九年七月廿三日に、盛義御遠行より以来、当年九月に至り、指引御仕置等万事濃州次第に候得ば、貴殿御呑初め、須賀川衆は何れも次第不同に被呑て可然存るなりと被申ければ、濃州聞給て、猶の儀なり、左あらば某呑て各へ進上とて、下戸なれどもたぶ〳〵一つ請て呑給ひければ、其後御旗本衆進出て、広言吐て呑給ければ、町人下々迄勇み進んで不残呑にけり、