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太閤記

信長公御父子之義注進之事
壬午六月三日の子の刻、京都より飛脚到来し、信長公、信忠卿、二条本能寺にして、昨日二日之朝、惟任がために御切腹にて候、急御上著有て、日向守お被討平可然之旨長谷川宗仁より密に申来しかば、秀吉慟せる事不浅、然共さらぬ体にもてなし、四日の朝御馬じるし計持せ陳廻りし給ふ、つねは百騎計めしつれられ見廻給ふが、此事お聞れしより、一しづめしづめ、堤お打廻り給ひければ、輝元弥降参おぞ請にける、先月下旬より備中、備後、伯耆三け国お上可申之条、御和睦之義ひとへに奉頼之旨再三及べり、其の上諸事御入魂に預り候はゞ、向後疎意お存まじき旨、牛王宝印之裹お飜し(○○○○○○○○○)、上巻の起請文(○○○○○○)並人質お進上可申と、小早川吉川より申来りし也、