[p.0375][p.0376]
鹿苑寺文書
吉利支丹ころび申しゆらめんとの事
一我々は何年より何年まできりしたんにて御座候へ共、何年の御法度よりころび申候事、うたがひ無之候、今程なにの宗体にて御座候、
一吉利支丹宗旨に成、此前方ねがひ申候事、今に後悔にて御座候間、後々末代きりしたんに立帰る事仕間敷候、同妻子けんぞく他人へも、其すゝめ仕間敷候、自然何方より伴天連参、こんひさんのすゝめと雲共、此書物判おい尨し申上は、其儀かつて以妄念にもおこし、取あつかう事に同心いたすまじく候、もとのきりしたんに立帰るにおいては、しゆらめんとの起請文以て、是おてつする者也、
一上には天公でうす、さんた、まりやおはじめたてまつり、もろ〳〵のあんしよの蒙御罰、死てはいんへるのと雲於獄所、諸天狗の手に渡り、永々五寒三熱のくるしみお請、重而又現世にては、追付らさるになり、人に白癩黒癩とよばるべき者也、仍おそろしき、しゆらめんと、如件、
完永十弐年 何之村
十月 ころび
誰判
妻子判右三け条は、ころび候きりしたんに書せ取可申候、奥二け条は、総様の百姓共、並召仕の者迄書せ、庄屋所に請取可申者也、
亥十月十日 周防印
北山
庄屋
百姓中