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源平盛衰記
二十六
兼遠起請事
平家大に驚き、中三権頭お召上て、如何に兼遠は木曾冠者義仲お扶持し置、謀叛お起し、朝家お乱らんとは企つなるぞ、速に義仲お搦進すべし、命お背かば女が首お刎らるべしと、被下知ければ、兼遠陳じ申て雲、此条且被聞召候けん、義仲が父帯刀先生義賢は、去久寿の比、相模国大倉の口にて、甥の惡源太義平に被討侍き、義仲其時は二歳になりけるお、恩愛の道の哀さば、母惡源太に恐て、懐に入ていかヾせんと歎き申しかば、一旦哀に覚えて請取て今まで孚置て侍れ共、謀叛の事努々虚言也、人の讒言などに候力、但御諚の上は、身の暇お給て国に下、子息共に心お入て可搦進と申、右大将家重て仰には、身の暇お給はんと思はヾ、義仲お可搦進之由、起請文お書進べし、不然者子息家人等に仰て、義仲お搦進せん時、本国に可返下也と有ければ、兼遠思ひけるは、起請おかかでは難遁、書ては年来の本意空かるべし、いかヾすべきと案じけるが、縦命は亡ぶとも、義仲が世お知んこと大切なれ、其上心より起て書起請ならず、神明よも惡しとおぼしめさじ、加様の事おこそ乞索圧状とて、神も仏も免れ候なれと思成て、熊野の牛王の裏に起請文お書進ず、其状に雲、
謹請 再拝再拝 早依有謀叛企、可搦進木曾冠者義仲由、起請文事、
右上奉始梵天、帝釈、四大天王、日月三光、七耀九星、二十八宿、下内海外海竜神八部、堅牢地祇冥官冥衆、日本国中七道諸国大小諸神、鎮守王城諸大明神、驚申而白、木曾冠者義仲者、為六孫王之苗裔、継八幡殿後胤弓馬之家也、武芸之器也、依之被引源家之執心、為謝宿祖之怨念、相語北陸諸国之凶党、擬滅平家一族之忠臣之由有其聞、以濫吹也、早仰養父中三権頭兼遠、而可搦進彼義仲雲々、謹蒙厳命畢、任被仰下之旨、速可搦進義仲、若偽申者、上件之神祇冥衆之罰於兼遠之八万四千之毛孔仁蒙天、現世当来永神明仏陀之利益仁可奉漏之起請状如件、
治承五年正月日 中原兼遠
とぞ書たりける、依之平家憑もしく思はれければ、中三権頭お被返下、兼遠国に下て思ひけるは、起請文は書つ、冥の照覧恐あり、又起請に恐れば日比の本意無代なるべし、いかヾせんと案じけるが、責も義仲お世に立んと思ふ心の深かりければ、本望おも遂、起請にも背かぬ様に、当国の住人根井滋野行親と雲者お招寄て雲けるは、此木曾殿おば幼少二歳の時より懐育み奉て、世に立候はん事おのみ深く存侍ぎ、成人の今に高倉宮の令旨お給て、平家お亡さんとする処に、兼遠お召上て乞索圧状の起請文(○○○○○○○○)お被召畢ぬ、此事黙止せん条本意に非ず、されば木曾殿お和殿に奉らん、子息共は定て参侍べし、心お一にして平家お討亡て、世におはせよとてとらせける志こそ恐しけれ、