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太閤記

天正十一年城主定之事
或曰、宇喜曲家運二代相続有し事は、毛利右馬頭元就と秀吉卿と対陣有けるに、字喜田和泉守直家、備後美作両国お領し、西輝元東秀吉、其間に夾て東西弓矢之行お見もし聞もし勘るに、羽柴の家は興るべき方也とみて、家老長船紀伊守、戸川肥後守、岡越前守、花房助兵衛尉および寄、相謀りけるは、秀吉卿合戦之行、国々之仕置、毎物はがの行やうお察るに、行々天下おも可計人なり、此人に与し家運おさかへ、忠功有人々の労お補ひ、万民お撫育せんと思ふは如何にと、密かに評しけるに、四老奉り、仰猶にはおはしませども、大切なる子供お人質に輝元へつかはしおきしなり、殊に安心之儀おば、いかゞおぼし給ふぞやと申ければ、予亦此事お悲しみつゝ、其用捨骨髄に徹し謀りみるに、今西に在人質は五人也、両国に在父母兄弟おかぞふれば百人に及べり、五人お捨、百人お助けんは国守之勤、鬼神も悦給ふべし、寔順当然之理、諸人お撫するは君主之業なり、所詮直家は順理可撫万民、もし此義おそむき正理お不知者は人質に付て西へ参候へ、更以恨なし、早いなやの返辞有べし、送届くべしと有しかば、皆直家に同じけり、さらば誓紙お調へよとて、熊野之牛王宝印お以、始終の固おこしらへ、秀吉卿へ小西如清おして其旨申奉りければ、事の外悦びたまひつゝ、其身の事は不及申、於子孫も全疎意有まじきとの誓紙お、蜂須賀彦右衛門尉につかはされしかば、直家快悦し侍りて、又四老お呼、秀吉卿より使札之趣お委く談合しつゝ、即輝元に対し敵の色お可立行お相謀りけり、