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折たく柴の記

我三十七歳の冬十月〈○元禄六年〉十日に、高力予州の、我師の許に来りて、門中の人々誰かは其最におはする、我心のやうにて、問ひまいらせよと、戸田長州の申すなりと、いはれしかば、〈戸田の当時甲府は家老〉足下にも、よく知り給ひし者おとて、我事おもて答へらる、同十五日の夕、予州の久しく見侍らぬといふなり、彼許に行給へと命ぜられしかば、ゆきむかふに、尋問はれし事など、対ふる事あり、き、十二月の五日に、予州又我師の許に来りて、長州の言葉お伝へて、我お藩邸にすゝめられん事おはからる、されど我師の心に、みち給はぬ事おはしければ、まづ彼に申してこそ、答申すべけれと宣ひ、其夜我お召て、宣ひし事共あり、六日に又予州いはれし事共ありしに、其夜我また申旨ありしによりて、七日の朝に至て、予州の許に文して答申されき、〈○中略〉十二月十六日の巳時計に、藩邸に祗候す、戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我お召出して、御家人たるべき由の仰お、ば、小出伝へられき、同十八日、始て見参す、