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細川頼之記
頼之、将軍〈○足利義満〉おもりたて奉て、天下の成敗お主る、新将軍今年八歳にならせ給へば、学問おなされ、礼義作法の宜き様に、たすけ導かせん為に、広才の僧徒お撰み給ふ、天竜寺の長老春屋和尚法眷正蔵主と雲人あり、能書と雲、文才世にならびなしと申ければ、武州此人お近付て試み給ひ、文才は人の雲しに不違、然ども姦惡の心あつて、あくまで侈り、したしき者おば是お欲挙うとき者おば才智ありといへども去すてし也、此行跡にては、将軍の師に成し奉るべき器にあらず、御傍に置参らせんことも、危しと思れければ、其沙汰なく成にけり、此事世に触られければ、方々より能書又学解の人、諸芸者に至まで、先武州に近き奉らんと集りつどへり、去ども心に私なく、温和にして、幼君の御そばに可置人なし、ある時山名伊豆守、武州に向て申されけるは、東寺澄快法師は、能書と雲、内外伝ともに通達の人なれば、是お将軍の学問の師に置るべしと申されけれども、広才能書は、世にすぐれたること、某も存候へども、行跡頑にして動もすれば我意お行へり、幼君の御そばに可置人に非ずとの玉ふ、其後南都より教司と雲遁世者お呼出し、試み給ひ、浮世の塵網お抜けて、欲心少しもなし、道お専とし理にさとき常の行跡不怠、才智も如形候へば、是お将軍の御傍に置べき人也と進めける、教司辞して雲く、さまでの才学もなく、御尋あらん事、答へ申さヾらんは、最はづかしと、達て被申ける、武州の雲、貴辺の御存あることおば、御答あるべし、常に故実ある御物語申し給へ、将軍の威に恐、貴辺の行跡お乱し給ふな、理のまヽに行ひたまへ、当世婆娑羅の事、露計も語り給ふな、人の善悪、将軍の御意なきに、申させ給ふなと、懇に教ける、又武州四国に在し時、近藤平次兵衛盛政とて、弓矢の故実お知り、文道の心おも凡弁へて、義お専とし、道お嗜人あり、年老たる上に、頼べき子なければ、遁世入道して、讃州の国府に在しお、頼之呼出して、数年親つけて試給ふに、心に少しも私なく、不隔親疎、礼義正く道理のまヽに行ふ、寔に当時の人の手本とも、可成人なりと、頼之深く信じて、此人お還俗せさせて、将軍の御傍へ参り給へ、寔に苦労にて候へども、平に頼み申にて候、〈○中略〉還俗の事は、其心に可任、但数年頼之に仕し如く、将軍の御前に被有候へ、其上にて、貴辺の失あらんは力なく、頼之が不覚たるべし、苦労のことさぞあらんずるぞ、頼之将軍の御為に、一身お捨て、苦労お不顧、将軍の御代お治めて、名お子孫に残んことお思ふ、御辺何ぞ為頼之身お捨て、老の苦労お不顧、将軍に仕へ奉て、名お残し給ざらんか、但実子なければ、子孫の為と雲がたし、隻忠の一篇と心得たまへと被申ければ、近藤入道力なく御請申てけり、