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十訓抄

肥後守盛重は、周防の国の百姓の子なり、六条右大臣〈○源顕房〉の御家人になにがしとかや、かの国の目代にて、くだりたりけるに、次ありて、かの小童にてあるお見るに、魂ありげなりければ、よびとりていとおしくしけるお、京にのぼりてのち、供に具して大臣の御許に参たりけるに、南面に梅木の大なるがあるお、梅とらんとて、人の供の者ども、あまた礫にて打けるお、主のあやつとらへよと、みすの内よりいひ出し給たりければ、蛛のこおふきちらすやうに逃にけり、其中に童一人、木のもとにやおら立かくれて、さし歩て行けるお、優にもさりげなくもてなすかなとおぼして、人おめして、しか〴〵の物著たる小童、たが供の者ぞとたづね給ければ、主の思はん事おはゞかりて、とみに申さゞりけれど、しいて問給ふに力なくて、某の童にこそと申けり、即主めして某童参らせよと仰られければ、いとおしくしてつかひ給に、ねびまさるまゝに心ばせおもふばかりにふかく、わりなきものなりける、常に前にめしつかひ給に、あるつとめて手水もちて参りたりける、仰に、かの車宿の棟に、烏二居たるが、ひとつの烏、頭の白きと見ゆるは僻事かと、なき事おつくりて問給ひけるに、つく〴〵とまもりて、しかさまに候と見給と申ければ、いかにもうるせきもの也、世にあらんずるものなりとて、白川院に参らせられけるとぞ、