[p.0419][p.0420]
関八州古戦錄

太田三楽岩築城離散事附源五郎氏資戦死事
小田原の万松軒、法花の僧お使价として、岩築の城へ遣し、太田三楽斎お賺されけるは、〈○中略〉嫡子源五郎へ家督お譲りて、三楽は隠居あられ、心安余年お送られんか、然らば氏政の妹お以て、源五郎へ娶せ、北条一家後楯と成て、永く社稷お保護せられん様に執計ふべき条、枉て此義に同心あらるべしと、両度に及んで、申送られければ、〈○中略〉氏康の旨に応ずべき由、返答に及びければ、万松軒父子大に歓び、頓て吉日良辰お択て、息女〈後長林院と号す〉お岩築の城へ送り、婚姻の礼お修し、千亀万鶴の祝おなして、殊更に懇情お加へられければ、実に無為とぞ見へにける、斯りし程、姑くの後、氏康追て調義お回らし、源五郎氏資、並に恒岡越後守、春日摂津守など雲、太田が家にて、奉行職の者共お相語らひ、氏政野州の小山長治お攻ん為とて、出馬おなさしめ、不意に岩築へ人数お懸けて、三楽斎お立出すべき内約お示さる、資正仄に是お聞て、元来浩る変事あらんは、兼て期したる義なれば、更に驚く気色もなく、知らぬ顔に持なし、下戚腹の長男梶原源太左衛門資晴お招き、且は身のたヽずまひ、且は手遣の思案以下お密談して、川崎又次郎お差副へ、佐竹義昭の許へ行しめ、吾儕は浜野修理亮お召連、宇都宮へ赴けるお、〈○中略〉氏政の下知として、太田大膳亮、二百余騎お奉し、岩築の城へ来り、外郭お堅く守て、終に三楽お還し入ず、此に於て資正資晴牢浪して、源太左衛門、新六郎は、佐竹に倚頼し、三楽は武州忍へ立越、成田左馬助氏長の婿たる故、其扶助に罹りて居けり、前管領立山叟、旧臣多き中に、太田長野の両士は、始終操お変ぜず、無二の忠義お差挟みて、日暮上杉家の再興お而已志しけるに、時運怯くして、今年に至り、長野は滅亡し、三楽は逋客となり、北条の武威、弥〻増り顔にぞ成にける、