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太平記

長崎新左衛門尉意見事附阿新殿事
去年〈○元徳二年〉より佐渡国へ、流されておはする、資朝卿〈○日野〉お斬奉べしと、其国守護本間山城入道に被下知、此事京都に聞へければ、此資朝乎息国光中納言、其比は阿新殿とて、歳十三にておはしけるが、父卿召人に成給しより、仁和寺辺に隠て居られけるが、父誅せられ給べき由お聞て、今は何事にか命お惜べき、父と共に斬れて、冥途旅伴おもし、又最後御有様おも見奉べしとて、母に御暇おぞ乞れける、母御頻に諫て、佐渡とやらんは、人も通ぬ怖しき島とこそ聞ゆれ、日数お経道なれば、いかんとしてか下べき、其上女にさへ離ては、一日片時も命存べしとも覚へずと、泣悲て止ければ、よしや伴ひ行人なくば、何なる淵瀬にも身お投て、死なんと申ける間、母痛く止ば、又目の前に憂別も、有ぬべしと思詫て、力なく今まで隻一人付副たる中間お、相そへられて、遥々と佐渡国へぞ下ける、