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常山紀談

直家〈○浮田〉は和泉能家の孫なり、能家はもと浦上掃部助村宗に仕へ、備前邑久郡砥右の城に居れり、浦上の長臣島村豊後守後入道して貫阿弥といひしは、鷹取山の城に有て、威勢ありて能家お殺害せり、これ享禄四年の事なり、〈○中略〉天文十五年、直家十五歳に成ぬ、母の方にゆけば、〈○中略〉直家よく聞せ給へ、祖父泉州おば島村が殺したりき、父仇お得討給はで口惜くこそ候へ、いかにもして一度祖父の弔お遂んと存るに、島村お殺すに過たる事や候、われもしかしこきと、島村聞なば其儘にたすけ置べきや、隻是のみ心お苦め謀おめぐらし、父祖の恥お雪ばやと存るなり、はや十五に成候ぬ、殿〈宗景おさす○浦上〉に奉公仕らんやうおはからせ給へ、かりそめにも此一大事口に出させ給ふなといひたりしかば、母驚き且悦て、密に宗景に告て直家初て仕へけり、〈○中略〉直家たばかり得たりと悦て、宗景に告て、沼より天神山の間に狼烟おあぐべし、しからば備中〈○中山〉お討得たりとしられよ、のろしあげなば、島村がもとへ使おはせ、中山謀叛したる故、直家に下知してうたせぬ、とく沼にかけ向て直家に力お合せよと下知あらば、島村年老たれども、遠く慮るにいとまなくて、一騎がけに、沼の城に来るべきお討ん事易かるべしと日お約しぬ、〈○中略〉かくて狼烟おあげしかば、宗景即島村がもとに使お馳て告やりしかば、島村聞て、つゞけ者共とて馬に鞍置せ打乗、従兵七八人計にて、沼の城に来る、城はとく乗とりたれば、直家本丸にありて門お閉たり、島村かゝる謀有ともしらず、本丸に入処お、かねて計り合たれば、取囲て討取たり、