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参考太平記

資朝俊基被捕下向関東附御告文事
又〈○島津家、今川家、金勝院本、〉雲、元徳二年四月朔日の事ぞかし、中原章房清水寺に参詣して下向せしに、西の大門にて八幡お伏拝ける時、折節小雨打灑けるに、蓑笠にはヾきしたる者一人、後お過ると見へし、此旅人太刀お抜、あやまたず章房が首お打落して、太刀お小脇に挟て、坂お下りに逃ければ、下人四五人有けるが、あれやと雲て声お揚、主の持せたる太刀お抜て逐けれども、いづちへか行けん、後影だに見へざりけり、下人走返て、宿所に告ければ、子息郎従周章迷ひ、急ぎ輿お将ち来り、空しき屍骸お舁せて、泣々家にぞ帰りける、〈○中略〉子息章兼章信等、嫌疑お広く糾明し、仇敵お遠く捜索するに、如何なる乎細にか聞出しけん、東山雲居寺の南門の東、南頬の岸の上に一宇の屋あり、瀬尾兵衛太郎並同卿房と号する者なり、名誉の悪党隠なき輩なり、然るに彼等が殺害実犯疑なしと聞定ければ、嫡子章兼は折節病床に臥て行向はず、舎弟章信、庁の下部十四五人、郎従下人三十余人には具足せさせ引率す、白襖に著寵に帯剣して、小八葉の車にて、未明に彼在所へぞ寄たりける、是非なく彼屋お取巻て、庁の下部どもに、心早き手きヽ共お左右なく放入て、家の内お捜しけるに、懸る惡党の習にて、元来足湯などおば置ざりけり、雑人一人も見へず、去ながら又本人他行の家とも見へず、其家内幾ならざる程なれば、塗籠まで打破り、板敷の下まで是お捜す、曾て人一人も無りけり、此上は力なく帰んとする処に、心疾者走返て、薦〈或作蘆〉天井構たるお見あげたるに、人の衣裳のつますこし見へければ、さればこそと心附て、先長刀にて薦天井おは子破るに、人こそ隠れ居たりけれ、既に見附られぬと思ひて、太刀お抜て男一人踊り下んとしける処お、先下しもたてず長刀にて、下より股脇お刺す、刺れながら飛下けるお、各寄せ合て是お搦んとしけれども、名誉の惡党の手きヽなれば、既に手負て足はたヽ子ども、四方お散々に切払て、寄附べくも見へざりけるお、章信が郎従一人後より太刀お取直し、小脇お刺す、刺れてひるむ所お、庁の下部に彦武と雲大力、走懸り組伏てけり、此男始の勇勢にも似ず、事の外に弱りてければ、軈て圧へて首お取、即其家内お追捕し、其屋お刎壊せて、章信は車の簾高く捲上、敵の首お前に置て返りければ、京白河の貴賤男女誉ぬ人こそ無りけれ、〈○下略〉